彼の要望
アンネの両手は拳銃をしっかり握りしめ、両腕と銃身は微動だにせずジルベールの頭に向かっていた。彼女が引き金を引けば、間違いなく彼の頭に風穴が開く状況だった。それでもジルベールはあっさりした微笑みを崩さなかった。
「で、さっさと離れろって言ってるのが聴こえないの? この女たらしが」
怒りのこもったアンネの声は、腹の底から絞り出されたアルトヴォイスだった。いや、実際はもっと低音だったかもしれない。とにかくアンネの全身の隅々からは殺気と憎悪のオーラが放たれているようだった。
「姉ちゃん、どうして出てきたんだよ⁉︎」
「あんたは黙ってなさい。今はジルベールをシメる方が先よ」
メアリーの悲鳴に近い叫びにもアンネは動じなかった。引き金に指を添え、その眼はジルベールの眉間のみを見つめていた。
「相変わらず乱暴な言葉遣いだなぁ」
ジルベールはふふと軽く笑い、自らへと向けられた銃にそっと片手を添えた。銃身の向きが僅かにぶれたが、銃口は変わらずジルベールの頭へと向いていた。それでもジルベールは銃を掴んで取り上げようとはしなかった。
「君は撃たないよ。優しいから。そうだろう? ひなげしの姫」
いたずらっ子のように妙な自信に満ちた眼がアンネを射抜いた。その暗い柘榴色の瞳の奥には、黒い霧のような何かが渦巻いていた。昔からジルベールの事をいけ好かない奴と思っていたアンネだったが、今日ほどジルベールに警戒心を抱いた事はなかった。しかしそんな気配を悟られまいと、アンネは歪んだ笑みを向けた。
「今更そんな幻想を抱いていたの? それとも皮肉? いずれにせよお生憎様。お望みとあらば今すぐにでも吹き飛ばしてあげるわ、そのすっかすかの頭」
「酷いなぁ。ま、君らしい発言だ」
首をすくめてそう言うと、ジルベールは摺り足で後ずさりしメアリーから離れた。それを目線で牽制しつつメアリーに歩み寄るアンネの胸元へメアリーは顔を埋めた。
「姉ちゃん‼︎」
「大丈夫、もう大丈夫だから」
今にも泣きそうなメアリーの顔を左手で撫でてやりながらも、アンネの右手に握られた拳銃はジルベールへ向けられていた。片手撃ちでは照準がぶれる事など分かっていた。しかし気休めとしての牽制――それが今のアンネには必要だった。
「で、私に用って何?」
「うん、そこの手紙にも書いたんだけど、最近個人的に外交ルートを確保しようと思っててね。」
ジルベールはイーゼルに置いた手紙を指差し、思いの外さらりと要件を口にした。寧ろもっと非常識な要望――例えばメアリーを愛人にしたい、といった――をされると思っていたアンネにとっては、拍子抜けする程まともな発言だった。
「外交?」
「そう。あ、貿易、と言った方が良いかなぁ? できるだけ広範囲で商売をやりたいんだ。だから多言語通訳が可能で信用出来る人間が必要って事。必要な時はこちらから連絡入れるから、連絡先さえ明確にしてくれれば自由に生活していて構わないよ。賃金はその都度相談で。どうだい?」
ジルベールは微笑んだまま首を傾げてみせた。一日前のアンネにとっては、受ける義理もないが断る理由もない筈の提案だった。だがクセニアの元で妙な話を聞いた今は違った。
「最近変な病がこの街に流行ってるそうじゃない。そんな時に外交を盛んにして人間の往来を活発にするのは、得策とは思えないわ。寧ろ街の内と外、どちらにとっても益はない。そう思わない?」
苦々しげに言いながら、クセニアの疲労に霞んだ笑顔が頭をよぎった。右手に力がこもり、人差し指がほんの少しだけ引き金に触れた。それを見て初めてジルベールの顔色が変わった。一瞬だけ見せた喫驚の表情は直ぐに笑顔に戻ったが、その眼にあったのは少なくとも余裕ではなかった。
「あの病の事を知ってるのか。……あぁ、クセニアだな?」
腕組みして顎に拳を添えながらジルベールはそう言った。何故かその時の彼の眼には闇が宿っているように見えた。暗い眼で笑う彼の顔は道化師の仮面を想起させた。その顔に軽い吐き気を覚えながらも、アンネはジルベールを懸命に睨みつけた。身体をくっつけたまま自分を見つめるメアリーの鼓動が速くなっているのがわかった。互いの不安が増幅しているのだ。自分がしっかりせねば。アンネは心を奮いたたせて口を開いた。
「誰から聞いたって良いでしょ」
「全然良くない。あんな無能な医者の話に耳を貸しちゃあいけないな」
「あんたに何がわ……」
アンネが声を荒げ反論しようと口を開いたその時、ジルベールは突然つかつかとアンネへ走り寄った。アンネが反応する間も無く、ジルベールは器用にも安全装置を小指で上げながらアンネの拳銃を右手で握りしめていた。ジルベールの拳と拳銃を間に置いて、二人は互いの顔を睨み合っていた。
「……あれはね、外から持ち込まれたんじゃないよ」
珍しく険しい顔で発せられたジルベールの言葉は喉の奥から絞り出された掠れ声だった。だが目の前のアンネにははっきりと聞き取れた。
「……何か知ってるのね。教えなさい、ジルベール」
アンネはかっと眼を見開いた。ジルベールの表情から少しでも情報を引き出そうと試みての事だったが、ジルベールは突き放すように拳銃を放しくるりと踵を返してしまった。
「何も知らないよ。僕はね」
背中越しの声は始めの自信を取り戻しているように聴こえた。彼が僅かな動揺を見せたタイミングで情報を取り損ねた事に、アンネは密かに歯軋りした。
「まぁ詳しくは手紙に書いたから読んでみて。いい返事を期待してるよ」
そういうとジルベールはちらりと床へ眼を落とし、踵で二回床を叩くとひらりと手を上げた。
「じゃあね。ひなげしの姫に拳銃を渡したお嬢さんも、いつか会える日を楽しみにしてるよ」
アンネは思わず驚きの声を上げそうになり、掌で口を押さえた。幸いジルベールは振り返らずにそのまま扉を開けて出て行ったため、それを気付かれてはいない筈だった。
ステラの存在に気付かれているとは思ってもみなかったが、冷静に考えれば簡単な事だ。少なくとも建前として、この国の一般市民が煙幕や拳銃なんて持っている筈が無かったのだ。ならば外部の人間の介入を考慮するのは当然だった。そう考えて少しでも心を落ち着けようとしていたタイミングで、物置部屋からステラが顔を覗かせた。
「……随分勘のいい方ですね。まさか拳銃の事だけでなく、床下に隠れている事に気付かれてるとは思いませんでした」
微かに髪についた埃を払おうともせず、ステラは静かに驚嘆の声を上げた。その顔に張り詰めた糸が切れたようにアンネはふっと笑い、その笑い声につられるようにメアリーも顔を上げた。
「昔から変わらないわよ、あの勘の良さとスカした性格は。ね? メアリー」
アンネは自分より僅かに目線の高いメアリーの頭を優しく撫でた。しかしメアリーの暗い顔は晴れなかった。
「……いや、ジル兄は変わったよ。昔はこんな強引な手段は取らなかった」
「女にちやほやされて、つけあがってるだけでしょ?」
「……わからない……」
メアリーは憂いに満ちた眼で首を振った。




