苛立つ犬
突然現れた犬の正体がリリィとわかり、フィンは胸を撫で下ろした。
『本当に助かったよリリィ。お前が来てくれなかったらどうなっていたか……』
そうだ。本当にどうなっていたかわからない。さっきの行動がクセニア本人の意思によるものとはフィンにはどうしても思えなかった。いや、万が一クセニアの意思だったとしても、だ。彼女はフィンの発熱にいち早く気づき対処してくれた恩人だ。そんな彼女ともみ合いになり誤って刺してしまうなんて事は絶対にしたくなかった。ならばフィンが彼女のメスを止めるためには少なくとも片腕を犠牲にしなければならなかっただろう。フィンが無傷でこの修羅場を切り抜けられたのは、やはりリリィのおかげだった。
『別に。それより何故追いかけられてたの? 覗きでもしたわけ?』
……しかしこちらの恩人……いや、恩犬は、どさくさに紛れて酷い言いがかりをつけてくるから困る。フィンは大慌てで否定した。
『ばっ、そんなわけないだろ⁉︎ ……そうだ、クセニアさん、大丈夫か⁉︎』
フィンは四つん這いのまま雪をかき分けクセニアへ駆け寄った。全身雪まみれのクセニアはすうすうと、それは気持ちよさそうな寝息を立てて熟睡していた。
『良かったあ……何かあったらアンネに申し訳が立たなかった』
『アンネの知り合いなのね、この人』
何かを調べるようにクセニアの頬にふんふんと鼻を近づけ、リリィは言った。フィンは小さく頷いた。
『うん、医師だって。俺、昨日熱を出してて、それで世話になってたんだ』
『あぁ、それで少し薬臭いのね。そんな人がメスを振り回してたの? 一体何をしたんだか』
リリィは意味深な視線をフィンへ向けた。やたら表情豊かでゲスい犬を前に、フィンはただ困惑するしかなかった。
『本当に何もしてないよ‼︎ 俺が静かにベッドで横になってたら、彼女が突然……』
『ま、そうでしょうね。貴方の方が何かするとは考えにくいもの』
弁解しようとするフィンへそう言うと、リリィはひゅんと尻尾をはたき背を向けた。そしてもう我関せずと言いたげに耳の後ろを脚で掻きはじめた。本当にマイペースな奴だとフィンは呆れた。
『……なんか、いちいちひっかかる言い方するなぁ……お前って奴は』
フィンは苦笑いしながら白い息を吐き出した。そして安らかな寝顔のクセニアをそっと背負い立ち上がった。相当疲れていたのだろうか、クセニアは少しも起きる気配を見せなかった。
*
『ところで、なんで犬の姿なんだ? リリィ』
頼りないフィンの足取りに寄り添うようについてくるリリィを見下ろし、フィンは尋ねた。しかしリリィはふるふると首を横に振った。
『……ややこしい話になるから今話すのはやめとくわ。ウィルとは別行動になっちゃったけど安心して。無事よ。怪我してるから療養に少しかかるでしょうけどね』
『そうか、無事か……って、それ、無事じゃないだろ』
フィンは危うく本気で納得しそうになった頭をぶんと横へ振った。
『怪我してるって言ったな。酷いのか?』
『……そんなに酷くはない、筈』
リリィの返答は珍しく自信なさげで後ろめたそうで、それがフィンを余計不安にさせた。
『筈って、お前……』
『大丈夫よ』
リリィは今度はきっぱりと言った。だがリリィの視線は落ち着かなくて妙におどおどしていて、それが彼女自身の不安を何より証明しているようにフィンには思えた。
『私が大丈夫だと言うんだから大丈夫なの。私はウィルの唯一無二の相棒よ? 信用しなさいよ』
そう言うとリリィは歯をむき出し唸った。しかしそれはフィンに向けての威嚇とは少し違っていた。少なくともフィンにはそう思えた。
『……本当に、大丈夫なんだな?』
『五月蝿いわね、ヘタレのくせに』
念を押すフィンにリリィは鬱陶しいと言いたげに顔を背けた。彼女が何かに苛立っているが故の仕草だとは理解出来たものの、その苛立ちが何を原因に湧き上がっているのか、フィンに分かる筈はなかった。
『うぅ、ひどいなぁ……』
『とにかく、アンネが隠れ家を確保してくれるまで私はフィンの側にいる事にするわ。そのクセニアって人、また暴れるかもしれないし』
『……あぁ、その方が有難いな』
リリィの言葉にフィンは頷いた。いざという時の戦力として頼もしいというのもそうだが、通訳が側にいない不安感はついさっき痛感したばかりだった。
『……まぁそれはそれとして、共用語は覚えないとなぁ……』
背中で寝息を立てているクセニアへちらりと視線を移し、フィンは小さくため息をついた。明日アンネがやってきたらまたスパルタ教育が始まるであろうという事実に、軽く目眩を覚えていた。




