目覚め 〜side Lily
混沌。
死んだ後はいつもそう。
ミルクを注ぎ込んだコーヒーのような、或いは水バケツに絵の具のついた筆をぼちゃんとつけて濯いだ時のような。
それは形ある時には決して感じる事の出来ない――少なくとも彼女はそう思っていた――甘く心を蕩けさせる感覚だった。いつまでもこの場に留まりたい、このまま溶け続けていたい。そう思わせる支配力がそこにはあった。
――ねぇ、貴方もそう思うでしょう? ウ…
側にいる筈だったその名を呼ぼうとした。だがその名の主はどこにも居なかった。彼女がずっと共に生き、共に死んだ存在……
――おかしい。
――彼は何処……?
唐突に彼女は思い出した。彼を形ある世界へ置き去りにしてしまった事を。
――……戻らなければ‼︎
やっと彼女は気がついた。まだ彼女は混沌の中に居るべき存在ではなかったのだ。それを自覚した瞬間、彼女の意識の核は混沌の中から分離した。混沌の中に散らばる彼女の意識が、磁石に吸い寄せられる砂鉄のごとく集まり形を成していく……。
*
彼女……リリィは再び目覚めた。そこは雪の深々と降り続く森の中だった。
ゆっくりと起き上がったリリィは直ぐに自らの身体が獣のそれである事に気がついた。口の中に広がる血肉の匂い、目の前に転がる一羽の兎らしきものの死骸、そして人間の時よりも強く感じる聴覚と嗅覚は、彼女が野良犬の身体を得た事実を残酷に突きつけた。
リリィは悟った。何らかの理由でウィルの身体に戻れず、死の世界を垣間見ていた事を。そしてそこからの脱出を強引に試みた結果、一頭の犬の意識を自分が「間借り」してしまった事を。
彼女は落胆しなかった。寧ろ、早くウィルの元へ戻る為に犬の脚力、鼻、耳は有効だと考えていた。どうやって元の身体に戻るのかなんて分からなかった。けれど考えている時間がとにかく惜しかった。彼女は死骸の残りを綺麗に平らげると、当てもなく走り始めた。自らの感覚全てを研ぎ澄まし、少しでも人間の気配のする方へ。そうすればいつかウィルの元へ帰れる筈だ。そんな根拠のない確信がリリィを一途に走らせた。時折本来の意識が覗かせる食欲と睡眠欲には忠実に、だがそれ以外の自らに許された時間は人を探し走り続けた。そうしながらリリィは元の意識――その犬は自らをシリと名乗った――との折り合いのつけ方を学んだ。
彼らが人間の気配に気づいたのはその数日後だった。狼の騒ぎ声に駆けつけてみると、何故か雪山の中で驀進するバイク一台を追いかける狼の群れに出くわした。あのバイクに乗った人間を助けたら何らかの手がかりを得られるかもしれない。そんな一縷の望みにかけ、リリィはその白い脚を駆った。野犬のそれとは到底思えぬ速さで。彼女の持つ膨大な知識で合理的に最も速い走り方、最も速度を妨げない進路でリリィは狼を追い上げた。
狼達に追いつく事自体はそれ程難しくはなかった。リリィはバイクの人間を確認する事なく狼の群れをしんがりから蹴散らし始めた。完全に不意を突かれた狼達はろくに反撃の体勢も取れぬまま、一頭、また一頭と脱落した。残り三頭となり、残りの狼達は漸く連携をとってリリィに襲いかかったが、それも大した脅威にはならなかった。一分も経たずしてリリィの足元には残りの狼達が白目をむいて横たわっていた。
リリィはバイクを振り返った。だがバイクは更に距離を離しており目視では人間の性別すら確認できなかった。リリィは咄嗟に頭上を見上げた。
〈……枝を飛び移るか‼︎〉
そう決断するが早いか、リリィは助走もそこそこに大地を蹴った。
――トーン、
――タンッ、タンッ、タンッ‼︎
枝の配置、飛び上がりと着地の角度、四肢のパワーバランス、積雪を加味した枝のしなり具合までも計算に入れ、リリィは枝の隙間を軽やかに縫った。
〈……もう少しで追いつける‼︎〉
リリィが思ったその時だった。
――パキリ。
軽く、嫌な音が右側から聴こえた一瞬、身体が浮遊するような感覚がリリィを包んだ。
――ズザザァ……‼︎
〈……落ちる‼︎〉
折れた枝、その枝に積もっていた雪とともに自らの身体が落下していくのを理解した時には、もうリリィがバイクに追いつく術は残されてはいなかった。
〈……もう少しだったのに‼︎〉
落下しながらリリィは恨めしげな眼をバイクへ向けた。その時バイクの前方に乗っている人間が此方を振り向き、リリィとその視線が交わった。その山吹の瞳は何か腹をくくったように此方を見据えていた。リリィは眼を瞬かせ、そして眼を疑った。目の前の人間はフィンに見えたが、あのフィンがこんなに迷いのない眼をするとは信じがたかった。その僅かの迷いがリリィには命取りとなった。
〈フィ……〉
リリィが声を上げようとしたその刹那、
『っらぁぁぁぁぁ‼︎』
奇妙に裏返った声と共にヘルメットがリリィ目掛けて吹っ飛んで来た。
〈⁉︎⁉︎⁉︎〉
そしてリリィが身構える間もなく、ヘルメットはリリィの脇腹へめり込んだ。
ーードスァッッ‼︎
「キャウゥンッッ‼︎」
堪らずリリィは悲鳴を上げた。そのままヘルメットもろとも雪の中へと埋もれ落ち、リリィの意識はぷつんと途切れた。
*
リリィが次に目覚めた時には日もとっぷり暮れて月明かりが蒼々と雪面を照らしていた。その中をリリィはふらふらと歩いていた。シリの意識が先に目覚め、ヘルメットに微かに残った匂いと轍の跡を辿っていたのだと気付いたリリィはシリの優秀さに嬉しくなった。しかし喜んでいる暇はなかった。
――ガサガサガサガサ……
――ザクッ、ザクッ、ザクッ……
――ハァッ、ハァッ、ハァッ……‼︎
足音らしき二つの規則的な音、そして荒い息遣い。
人間が何かに追いかけられている。
リリィはすぐさま音の方へ駆け出した。




