月夜の白刃
アンネの熱心な勉強会は翌朝フィンが目覚めた数時間後から始まった。折角下がった熱がぶり返しそうだとフィンはごねたが、アンネには全く聞き入れられなかった。
『ぐぬぬ……、少しは休ませてよ、アン』
『泣き言を言う前に共用語を覚えて頂戴。貴方も困るでしょ、言葉が通じないのは。て言うか、期限までもう二日しかないんだから、さっさとお、ぼ、え、ろっ‼』
アンネはわざと目尻を釣り上げ、手持ちの定規をベッドに突き立てた。
*
そして、勉強会初日の夜。
『じゃ、今日やったページを復習しといてね。明日の朝一番にテストするから』
『……アン、本当に帰っちゃうのか?』
実家へ帰ろうとするアンネの背を見つめフィンは言った。アンネは肩越しに振り返った。
『妹の様子も見ておきたいし、ちょっと用事もあるから。でもどうして?』
『……いや、その……』
フィンは指をもじもじさせて言い淀んだ。まさかこの期に及んで、アンネがいないと正直心細い、などという本音を言える訳がなかった。しかしそんな事など露知らず、アンネはフィンが持っていたお手製の会話カードを指差した。
『それがあればクセニアとも最低限の意思疎通は出来るはずよ。他に何か問題が?』
『う、んと……ない。多分』
『でしょ。じゃ、また明日ね』
月夜に照らされた雪道をさくさく踏みしめてアンネは歩いて行った。それを見送るフィンの背中はとても淋しそうにクセニアには見えていた。
(……まるで飼い主のいなくなった子犬だな)
アンネを見送り玄関を閉めたフィンへ、クセニアはぴらりと紙を見せた。
――他に必要なものはあるか?
フィンは黙って首を振った。クセニアは満足そうに頷き、またぴらりと紙を出した。
――おやすみ。
――おやすみなさい。
フィンも紙で答えた。
*
真夜中を過ぎてもフィンは眠らなかった。布団を被り、窓から漏れる月明かりを頼りにアンネの作ってくれたプリントを読んで懸命に共用語を覚えようとしていたものの、フィンの眠気は既に限界まで高まりつつあった。頭が時々こくりと揺れ、その度にフィンはペンの尻におでこをぶつけていた。そろそろ眠った方が良さそうだと枕元のプリントをまとめ始めたその時だった。
ぎしりと木の扉が軋む音がした。続いてぎぎぎと扉の開く音と微かな足音が聞こえた。音の方向が玄関でなく奥の部屋からのものであったため、家主が様子を見に来たのだろうと疑わず、フィンは起き上がった。
フィンが顔を上げたその先には、やはりクセニアらしき姿があった。しかし明かりも持たず仄かな月明かりの部屋に佇むその姿はどことなく不気味に見えて、フィンは思わずまごついた。
『……あ、えっと……』
会話カードの中から一枚探し出し、フィンは目の前にかざした。
――どうしました?
しかしクセニアは何も言わなかった。ただ静かに数歩歩み寄りフィンの目の前で止まった。それでも黙っているクセニアに、どうしたのだろうとフィンが紙の後ろから覗き込んだその時だった。
――スパァン‼
小さな光が目の前を斜めに走った。冷たい風が顔を下から撫で、頰に痛みが走った。
『……痛っ‼』
フィンは咄嗟に頰へ手をやった。持っていた紙が真っ二つに切れて床にひらひらと落ちたが、そんな事を気にしている場合ではなかった。
クセニアは薄目でフィンを見据え、腕を振り上げていた。その手には月光を反射し青白い光を放つメスが握られていた。
フィンの顔から血の気が消え失せた。クセニアの眼には光がなかった。フィンの脳裏に初めてリリィと会話した時の事が思い浮かんだが、ゆっくり考える時間などなかった。フィンはとにかくクセニアを押し留めるように両手を広げ、声を上げた。
『ちょ、待ってクセニアさんっ‼ 落ち着いてくれっ‼ 話せば……』
わかる、と言おうとしてフィンは言葉を飲み込んだ。
この意味不明な状況の中でフィンが咄嗟に発せられる有用な共用語は……まだなかった。
『……わかんないんでしたぁ‼』
悲痛で滑稽な叫びと同時に、フィンはベッドから飛び降りた。その直後、自分のいた場所からぶすりと鈍い音がしたのをフィンは聴いた。それはクセニアのメスがベッドへと突き立てられた音だった。フィンは無我夢中でクセニアの横をすり抜け、玄関の方へと走った。そして扉を力まかせに押し開けるとそのまま裸足で屋外へ飛び出した。背後を振り返る余裕などなかった。考えていたらやられる、とにかく逃げなくちゃ‼ でもどこへ⁉︎ 現況を全く飲み込めないまま、フィンはひたすら手足をばたつかせて走った。
*
どれだけ走った後だろうか。フィンが足を止めたのは、森の中で不自然に開けた小さな空き地のそばだった。後先考えずにめくらめっぽう走ってしまったせいで、フィンには現在位置を知る術がなかった。せめて月の位置だけでも手がかりになればと、フィンは弾みっぱなしの息を整えながら蒼い月明かりの中へと踏み出した。しかしその右足は雪の下を這う雑草に絡め取られ、結果フィンは派手な音を立てて顔面から転倒した。
『……っ痛た……うぅ、鼻打った……』
――ザクッ、ザクッ、ザクッ。
ぼやきながら身体を起こしたフィンの背後で雪を踏む音がした。フィンは振り返りざまに左足で一歩後ずさった。しかしその拍子に再び草に足を取られ、フィンは尻餅をついてしまった。がくんと首が揺れ、かち合った歯が舌の端を噛んだ。その痛みに声にならない呻きを上げるフィンの足元にゆらりと人影がさし、フィンは涙目で影の主を見上げた。
その主は予想通り、クセニアだった。彼女の足元も裸足だった。
(クセニアさん、やっぱり正気じゃない……誰かに操られているのか⁉︎ 俺は……どうしたら良い⁉)
フィンは周囲を見回し現状打破を何とか模索しようと試みた。だがパニックに陥っている頭に良案が浮かぶ筈もなかった。フィンはなす術もなく、クセニアが再びメスを振り上げるのをただ真っ青な顔で見上げる事しか出来なかった。そして彼女の腕がぶんと振り下ろされた。
(刺される‼)
――その時だった。
クセニアの横から青白い塊が飛び出し、クセニアの身体を押し飛ばした。彼女の持っていたメスは空を飛び、フィンの足元にぐさりと刺さった。クセニアはどさりと草の中に倒れ込み、そのまま立ち上がる事はなかった。
フィンは自分へ近づいてくる青白い塊の正体を遠目に確認した。それは一頭の白い犬だった。その犬が近づいてくると共に、フィンの頭に何処からともなく声が響いてきた。
〈……やっと見つけてみれば、こんな夜中にメスを振り回す女に追いかけ回されてるなんて。全く、相変わらずの清々しいヘタレっぷりだわ〉
フィンは目をぱちぱちさせた。
もう一度、じいっと犬を凝視する。
だが声は聴こえなかった。
『……き、気のせいか……』
張り詰めた緊張の糸がほどけ、口元が緩んだその時だった。
『……何よ、そのアホ面は』
今度は犬の小さな唸り声が、確かに聴き覚えのある悪態となって自分の耳へ届いていた。そんな筈はないと思いながらも、フィンは自分の想像した事を口に出さずにはいられなかった。
『……そ、その口の悪さ……まさか、っていうかやっぱりお前……リリィなのか⁉︎』
その言葉に犬は黙って頷いた。




