奇病
フィンの身体の診察を一通り終えると、クセニアは聴診器を首にかけて言った。
「おそらくただの風邪だ。胸の音も悪くない」
アンネはほっとしてフィンの顔を見た。相当辛いのを我慢していたのか、フィンは既に軽い寝息を立てて眠っていた。その安らかな寝顔はアンネの心を和ませた。
「だが二、三日はここで寝てた方が良いかもな。ちょっと気になる事もあるから」
「気になる事って?」
アンネの問いかけにクセニアは眉間に皺を寄せた。
「んー、ここんとこ、高齢者を中心に慢性化する発熱を起こす奇病が連続発生しててね。原因が掴めないのさ」
クセニアは机の上のコルクボードに貼られた大きな紙を見上げた。それはアンネ達の街、インパイの地図だった。赤いピンと走り書きされた黄色の付箋に埋め尽くされつつあるその地図は、「奇病」による被害が確実に広がっている事をありありと示していた。
(そんな事がこの街で起きていたなんて……クセニア……)
アンネはクセニアの机に広がった紙束に目を落とした。よく見るとその紙束の山は二つに分けられており、片方には様々な病気の論文、もう片方には診療録を積み上げているらしかった。クセニアが毎日その奇病に頭を悩ませ、心を痛めているのだろう事はすぐに分かった。
「私の知らない感染症が蔓延しているのかもしれないが……それならもっと若年層の患者が多くても良いと思うんだ。うまく言えないけど、今この街はおかしな事になっている気がする。お前が帰ってきたのはあまり良いタイミングとは言えなかったね」
そう言うとクセニアは軽く目をこすった。よく見るとクセニアの目の下には薄っすらとくまが浮かんでいた。寝食の時間すら費やして原因を調べているに違いない。アンネは胸が苦しくなった。
「ごめんなさい、大変な時に迷惑かけて。手伝える事があったら言って」
「ああ、迷惑なんてとんでもない。そういう意味じゃないよ」
クセニアは軽く笑い、そしてふむと唸って腕を組んだ。
「でも手伝いは確かに欲しいね。うん、お前にもやって欲しい事はある。けど……そうだな……」
しばらく考え込むように拳で口元を覆っていたクセニアだったが、突然ぽんと両手で太ももを叩くとアンネへにやりと笑みを向けた。
「よし、彼を借りるとしよう」
「……は?」
言葉の意味を理解しかねているアンネを置き去りに、クセニアはフィンを指差し言った。
「彼、元気になったら私の下僕にして良いか?」
「ふぇ⁉︎」
眠っていて話の内容など全く聞いていないフィンに代わりアンネは奇声を上げた。
「……正直、今の街の状況を考えるとだな」
クセニアは地図を指差した。
「原因を突き止めない限り、これから先、患者はますます増える一方だろう。だから助手がクレムだけでは心許ないんだよ。安心しろ、年下には興味ないから」
そう言ってパチンとウインクを飛ばすクセニアにアンネは完全に当惑していた。
「いや、そういう問題じゃなくて……」
「なに、ちょっと、ほんのちょーっと手伝いしてくれるだけで良いんだよ? な?」
「だから待って‼︎」
ぐいぐい迫るクセニアを強引に押し戻し、アンネは努めて冷静に本来の問題点を指摘した。
「フィンは共用語が話せないの。クセニアの手伝いなんて無理よ」
その言葉にクセニアは一旦きょとんと目を丸くしたが、何だその程度の事かと言いたげに手を振って答えた。
「そうか。でも話せないなら覚えればいい。こんな辺境にやってきたからには、ある程度長期の滞在を想定しているんだろう? だったら共用語を覚えても損はない。お前、フィン君に共用語を教えなさい」
あくまでフィンを下僕にする姿勢を崩さないクセニアにアンネはますます頭を抱えた。
「そんなの困るわよ。私にだってやりたい事が……」
「じゃあ何だ? お前は生涯フィン君の通訳係をするつもりか?」
「そ、そんなつもりは……」
たじろいだアンネの鼻先にすかさず細長い指を突き出し、クセニアはきっぱり言い切った。
「だったら全力で叩き込みな。三日で」
「三日⁉︎」
「語学に精通しているお前なら、それしきの事は難しくない筈さ。そうだな、三日後までにフレディ君が私とまともに会話できないようなら……」
クセニアの表情は完全に何か良からぬ事を企んでいる者のそれだった。クセニアがそんな顔をする時は必ず酷い条件を提示してくる事をアンネは嫌という程理解していた。アンネはごくりと生唾を飲んだ。
「で、出来ないようなら……?」
「お前の恥ずかしい写真、フィン君に見せびらかしちゃおうか」
「はぁ⁉︎ 何それ⁉︎ そんなの駄目‼︎ 絶対駄目っ‼︎」
裏返った声を上げるアンネに静かにするよう目配せすると、クセニアは再びにやりと笑みを浮かべた。
「それが嫌ならしっかり教えるんだね。その代わりといっては何だが、フィン君にはうちに居候する許可を与えよう。お前の家にはメアリーが居るだろう? お前達も一応年頃の娘なんだから、男をほいほい家にあげちゃいかんよ」
ははと笑うクセニアに返す言葉が見つからず、アンネは肩を竦めるしかなかった。
裏ペクトラ劇場
ウィル&ミーチャ:(クセニアの下僕にしていいか?発言に対し)「「どうしてそうなった。」」




