少女の異変
「…ったく、今日は早くから賑やかだな」
ウィルは大量の注文をてきぱき伝えながら呟いた。夕の開店直後からこの小さな酒場がほぼ満席になるのは、かなり珍しい事だった。
「今日は隣の街でお祭りなのよ。だからこれからの時間は稼ぎ時。もっと忙しくなるわよぉ」
野菜をリズムよく千切りしながらリーナはウィルへ微笑んだ。あまりの注文の多さに今日のリーナは厨房に缶詰状態になっていた。
「だったら臨時のバイトを募った方が良かったじゃん。さすがにこれ以上注文が増えたら俺でも捌ききれないって」
ウィルはうんざり顏でぼやいた。その声を背中で聞きながらリーナは切った具材を一気に大鍋に放り込んだ。油の弾ける音に急かされるように忙しなく手を動かしつつ、リーナは振り返るとウインクを飛ばした。
「そんな余裕はうちにはないし、ウィルがいれば大丈夫と思ってるからねっ!」
リーナの答えは予想以上にウィルの機嫌を直す効果があった。ウィルは一瞬目を丸くしてポカンと口を開けたが、慌てて口を尖らせた。
「ったく、都合のいいことを言いやがって……」
わざと仏頂面を作って皿を流しにおろしたが、流しで皿洗い専属担当となっていたフィンと視線がかち合い、
『……ウィル、なんか良いことあったのか?』
と不思議そうに尋ねられた事で、ウィルは照れ隠しがばれていることに気がついた。
『ばっ……な、何でもねぇよ!』
ウィルはカウンターの雑巾を流しへ投げつけ、フロアに戻った。
一方オリーブはというと、小さな身体で器用にテーブル間を縫うように移動し、次々と皿を回収していた。しかしオリーブも慣れない忙しさにやや戸惑っている様子だった。フィンも言葉が分からないなりにオリーブの様子を気にしていたのか、優男スマイル5割増しでオリーブから皿を受け取っていた。
薄々気づいてはいたが、フィンは人の表情を読み取るのが割と得意なようだった。言葉の通じない中で苦労してきたからだろうか。次々と注文を受けていく中で、ウィルはそんなことを考えていた。
*
日が沈み始め、注文内容が食事主体から酒とつまみへとシフトしつつあった頃。
――ガッシャーン!!
ガラスが割れた音が響き、店にいた人間の視線が集まった。視線の中心には酒を頭から被り床に尻もちをついているオリーブ、割れて散乱したグラスの破片、そして仁王立ちした中年男性が一人いた。男はかなり酔っていて足元がおぼつかない様子だった。
「オリーブ!!」
真っ青になり駆け寄ろうとするリーナをウィルはカウンター越しに止めた。
「リーナ! 俺にまかせて、連絡を!」
リーナは一瞬戸惑ったが、すぐ警察への連絡だと気が付くと店の電話を回し始めた。
『フィンは俺と来て!』
『ああ!』
エプロンを外し、近くのタオルを手に取るとフィンはウィルを追ってフロアへ向かった。
『大丈夫かオリーブ? 怪我は?』
フィンはオリーブを抱え起こした。オリーブは頭から酒を被って濡れ鼠になり、呆然とした顔でへたり込んでいた。髪から落ちる雫をタオルで拭いてやりながら、フィンはオリーブが大した怪我をしていないことを確認した。
一方ウィルは酔っぱらいの男の所へと駆け寄った。男は小汚い服と身体からひどいアルコール臭を漂わせていた。日頃の客層からは考えられない類の人間だった。遠方からの客に違いないとウィルは考えた。
「お客さん、どうしました?」
「どうもこうも、このガキがぁ、俺の邪魔をしたから、蹴飛ばしてやっただけよう」
男の口が開く度にウイスキーの匂いがもわっと広がるのが分かった。たちの悪い酔っ払い客だと内心毒吐きながらも顔には出さず、ウィルは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「これは、うちの従業員が失礼を……」
「嬢ちゃんは悪くねぇよ」
ウィルが謝ろうとするのを、近くに座っていた老人が遮った。周囲の視線は老人へと注がれた。
「その男、面白半分に嬢ちゃんを蹴飛ばしたんだ。足元をうろうろする邪魔なガキはこうしてやるって言ってな」
酔っぱらいの男はその言葉にすぐさま反論しようとしたが、周囲の客が皆非難の視線をむけていることに気付くと忌々しげに黙り込んだ。予想してはいたが、やはり客の方に問題があっただけでオリーブに落ち度はなかったらしい。ウィルは胸をなでおろし、その場を和ませるジョークの一つでも捻り出そうとした。
――その時。
『待てオリーブっ!』
背後からのフィンの声に振り返ったウィルの脇を、小さな影がすり抜けようとした。
――オリーブ!?
ウィルはとっさに右腕を伸ばし影を捕まえた。と同時に、右手に痺れるような痛みが襲った。
「―――っ!!」
ウィルは一瞬顔を歪めた。オリーブの拘束を最優先させる為、ウィルは右手を握りしめたまま左腕でオリーブの身体を軽々と抱き上げた。その腕を振りほどこうと懸命に抵抗するオリーブへ、ウィルは素早く低い声で耳打ちした。
「ここで暴れるなっ。あの男に報復してもオリーブは喜ばない」
オリーブは一瞬眼を見開きウィルをきっと睨みつけたが、ウィルの腕が予想以上にがっちりホールドされている事に気づくと、大人しくなった。ウィルは満面の笑みで周りによく聞こえるように言った。
「こらこら、おじさんに謝りたいからって店の中を走っちゃあ危ないだろう? もう遅いから今日はオリーブの仕事はおしまい、な?」
にこやかな笑顔のまま、ウィルはフロアへも挨拶した。
「皆さん、どうもうちの妹はお転婆なもんで、お騒がせしました! 片づけを後程行いますので、皆さんはどうぞ引き続きお楽しみくださいっ!」
ウィルの言葉で拍手が沸き起こり、客に笑顔が戻った。騒がしい酒宴がひきつづき行われる中、ウィルはオリーブを抱きかかえたままカウンターへ歩き、フィンはそれについていった。
『なあウィル、さっきの……』
声をかけようとウィルの顔を覗き込んで、初めてフィンは異変に気が付いた。
ウィルは額に汗をうかべ、苦虫を噛み潰したように顔を歪めていた。しかし両腕は暴れ回る仔犬でも捕まえているかのようにがっちりとオリーブの身体を固めており、当のオリーブは黙ってウィルを睨みつけていた。その血走った目つきは明らかにいつものオリーブではなかった。
『……どういう、事なんだ?』
『俺の右手を見ればわかる』
たじろくフィンにウィルは努めて冷静に答えた。フィンは言われた通りにし、言葉を失った。
オリーブの左手を掴んだウィルの右手は、血で真っ赤に染まっていた。