孤高の白犬
アンネは反射的に振り返った。投げ飛ばされたように黒い塊がバイクの脇へ落ちてきた事は認識出来たが、バイクのバランスが崩れかけている現状でその塊を視認するのは困難だった。アンネは瞬時に視線を進路へ向けた。
『今落ちてきたの何⁉︎』
フィンはバイクにしがみつくような前傾姿勢で前方を注視したまま尋ねたが、まともに返答する余裕はアンネにはなかった。
『貴方は前向いてバランス取っていればいいの‼︎』
ふらつくハンドル操作を立て直し、視野の端で後方へ遠のく塊の視認を試みたが無駄だった。しかしアンネにはある推測があった。
(もしそうなら、尚の事バイクを降りられない……。せめて前後の席を交換出来たらもっと運転し易くなるのに……‼︎)
『……そんな場合でもなくなりそうかも……』
唐突に呟かれたフィンの言葉がアンネの思考を遮った。嫌味の一つでも言ってやろうとフィンの顔を見たアンネは、その真っ青な表情の視線の先を自然と追いかけていた。
『……こんなタイミングで⁉︎』
何かが憑いているとしか思えなかった。
振り返った二人の視界には、はらはら舞い落ちる粉雪の中で狼を次々蹴散らす一匹の白い大型犬の姿があった。
ーーパキィィィン‼︎
バイクの前輪が枝を踏み折った音で二人は我に返った。フィンは前へ向き直りバイクのバランスを微調整し、進路に大きな問題がない事を確認してから背中のアンネへ話しかけた。
『なぁ、あの後ろの白い奴、俺達の味方ってこ……』
ーーゴンッッ‼︎
後頭部へのアンネの頭突きによって、フィンの発言は突如キャンセルされた。フィンは目から星を出し前のめりに悶絶する事となった。
『馬鹿っ‼︎ 野生動物が助けてくれる訳ないでしょが‼︎ そんなんでよく一ヶ月も放浪できたわねっ‼︎』
冷静さに欠けたアンネの金切り声がフィンの背中へ突き刺さる。フィンは涙目で振り返った。
『頭突きは勘弁してくれよぉ……そんな……』
怖い顔で怒鳴らなくても、と言うつもりだったフィンは口を噤んだ。
アンネは真っ青な顔でぶるぶると震えていた。バイクのバランスが崩れていたのはアンネの震えによる振動の所為だった事にフィンは気付いた。
『おいアン……、顔色悪いぞ? どうしたんだ?』
訝しそうに尋ねるフィンにアンネは唇をきゅっと結んだまま首をぶんぶんと横に振った。
『何でもない、気にしないで』
仏頂面で簡潔な答えを返したアンネだが、顔色と震えは見るからに酷くなっていた。アンネが嘘をついているのは明白だった。
『変に誤魔化すのはよしてくれ。どうしたんだよ、お前らしくないぞ?』
不安気に再び尋ねるフィンへアンネが面倒そうな視線を向けたその時。
ーーウォォン‼︎
バイクのすぐ真後ろで犬の鳴き声が低く響いた。
『ひっ⁉︎』
ーーブルォォォ‼︎
アンネの気の抜けた悲鳴ともつかない声と同時に、エンジンの音量が増した。バイクは不安定なまま更にスピードを上げ始めた。
フィンは爆音を上げるバイクに振り落とされぬよう必死でしがみついた。スロットルを全開にするアンネにスピードを落とすよう懇願したかったが、そんな余裕はなかった。正面から顔面を叩く風雪の所為で眼を開ける事すらままならなかったフィンは、バイクの進路を塞ぐ倒木に気付く事が出来なかった。
ーードッゴォォン‼︎
前輪が倒木に接触し二人の身体がバイクごと跳ね上がる。フィンは堪らず脱げかけたヘルメットの下から叫んだ。
『アンッ‼︎ 何してる‼︎ きちんと操縦してくれよぉっ‼︎』
アンネの返事を待たず振り返ったフィンは僅かの思考停止の後、戦慄した。
アンネは頑なに眼を閉じ全身を強張らせていた。彼女の顔には恐怖と拒絶の意思しかみられなかった。
アンネがそれ程萎縮し切っているという事実に当惑したものの、生命の危機を察知したフィンの本能は、解決方法の模索へと瞬時に思考回路を切り替えた。
フィンは先ずヘルメットを外し顎紐を右手で握り込んだ。次に馬に鞭打つ騎手の如く左手をしならせアンネの足を横からはたいた。
ーーバッツゥゥゥン!
大腿への鈍い刺激と張りの良い音で、アンネは我に返り眼を開けた。視界には雪まみれになったフィンの酷く真剣な表情が真っ先に飛び込んできた。
『……お前、犬が怖いのか⁉︎』
フィンは唐突にそう尋ねた。バイクが着地寸前でバランスを崩しかけている中、その質問は極めて奇妙で場違いだと言えた。然しアンネはぽかんと口を開けたものの、その事を咎めはしなかった。
『……えぇ、そうよっ‼︎』
ほうけた顔を一瞬で引き締め、アンネはバイクの態勢を立て直しながら開き直った。
『悪いっ⁉︎ 誰だって得手不得手があるもんでしょっ⁉︎ 私は白い犬が……』
ーードッスン!
アンネが言い終わらないうちにバイクの後輪が着地した。バイクは絶妙なバランスを保ち前輪を地につけ、そして。
『……何より、嫌いなのよぉぉ‼︎』
ーーブウォォォォォ!
アンネの悲鳴に近い叫びが、バイクのエンジン音と共鳴し山中へ響いた。
『た、頼むから落ち着いてくれっ‼︎ 減速、減速だってっっっ‼︎‼︎』
フィンは風をもろに顔面に受けながら必死に叫んだが、アンネは即座に却下した。
『今速度を落とす訳にはいかないわっ!』
スロットルを握るアンネの右手に力がこもる。先程のフィンの平手打ちのお陰で冷静さを取り戻してはいたが、恐怖心を完全に払拭できているとは言えなかった。
『……まだ、彼奴が居る‼︎』
語尾の声が微かに震えた事にフィンは気付いた。アンネの言う『彼奴』が先程の白い犬の事を指している事はフィンにも理解出来たが、エンジン音がけたたましく響く中、後ろも見ずに言い放ったアンネの言葉を俄かには信じられなかった。フィンは向かい風で身体のバランスを崩さぬよう気をつけながら後ろを振り返った。
バイクの後方には積雪で白く染まった林が広がるばかりだった。そこに犬はおろか動物の姿は全くなかった。
『アン、い……』
犬はいなくなったようだとアンネに伝えようとしたその時。
ーードサドサドサッ!
バイク通過を狙い澄ましたかのように樹上の雪が落下する。アンネの背後でもろもろと崩れ落ちていくその雪塊の中に、異色の白が紛れているのをフィンは見逃さなかった。
命を持たぬ氷の集合体が儚く光る中で、その「白」は生命体特有の力強さを持っていた。肉食動物特有の獰猛さ漲る黒眼とフィンの視線が交錯する。
ーー野犬だった。
状況から判断すれば、ついさっき狼の群れを蹴散らしていた白い野犬と同一個体と考えるのが自然だった。
(上空から……枝を跳び移って⁉︎)
突然現れた追手に面食らいながらもフィンの思考回路は嘗てない程早く動いた。
一つ目の瞬きでアンネの表情へ
ーーまだ気付いてない、
二つ目で野犬へ
ーー追いつかれる‼︎
最後にフィンの視線は自らの右手へと移り。
次の瞬間。
『っらぁぁぁぁぁ‼︎』
フィンはアンネの頭上すれすれに右腕を力一杯振り上げる。
右手からヘルメットが放たれ。
ーードスァッッ‼︎
「キャウゥンッッ‼︎」
ヘルメットは野犬の左脇腹へめり込むように命中し、野犬は雪の白へ溶けるように墜ち消えた。
『今何したのっ⁉︎』
『何でもないっ‼︎』
アンネの気を散らさないようフィンは懸命に誤魔化した。
『それよりスピード‼︎ そろそろ落とさないか⁉︎』
フィンの指摘でアンネは初めてスピードメーターへ目をやった。メーターの針は右端へ振り切れんばかりにカタカタ揺れていた。地面の凍結や搭乗人数を考慮しても、実質時速80kmは出ているように思われた。
『そうね‼︎ そろそろ速度を……』
減速の準備を始めようとしたアンネの顔がさっと青ざめた。
バイクの進む先には、緩やかにうねる下り坂が続き。
その先に、道はなかった。




