白の街へ
アンネとフィンが目的の街に着いたのは、二人がジークの元をたってから一週間後のことだった。
『漸く野宿と缶詰の生活からおさらば出来そうねっ!』
紅葉で紅く色づいた山の見晴らし台から双眼鏡で目的地を確認したアンネは歓喜の声を上げた。その声に反応し、フィンはサイドカーから顔をひょこっと出した。
『ついでにサイドカー生活からもおさらば出来ないか? 運転中のチェーン音とエンジン音、それと腰痛が辛くなってきたんだけどさぁ……』
サイドカーの縁に顎を乗せ、フィンは情けない声を上げた。そんなフィンに呆れ顔で視線を移しアンネは答えた。
『街の近くまでは我慢して頂戴。どうせ街に入るまでに乗り捨てる事になるでしょうから』
『え? 乗り捨てるのか? バイク』
きょとんとして尋ねるフィンに、アンネは当然だと言わんばかりに肩を怒らせフィンに詰め寄った。
『ただでさえサイドカーが付いてる所為でハンドルが流れがちなのに、その状態で雪道を走行するなんて自殺行為だわっ! 嫌よ私は!』
『……そんなに怒らないでくれよ……な?』
全身で怒気を露わにするアンネに肩を竦めながらも、フィンは背後のバイクとアンネに交互に視線を向けつつ提案した。
『思ったんだけどさ、このバイク、結構大きいだろ?俺を後ろに乗っけて走れるんじゃないかなー、なん、て、さ……』
アンネは大股で一歩フィンへ歩み寄った。アンネの端整な目鼻立ちに似合わぬ不機嫌そうな表情をぐぐいっと近づけられ、フィンは顔を引きつらせ後ずさった。アンネは無言でフィンの眼を見つめた。
(……ナメた発言で怒らせたか?)
フィンは瞬きすら出来ずに硬直した。アンネの怒号が今にも顔面直撃しそうな雰囲気に、フィンは怯えながらも覚悟を決めた。
しかし。
『フレディ、バイクの運転経験はあるんだっけ?』
アンネの発した言葉は怒号ではなかった。表情こそ不機嫌さが露骨に現れていたものの、その声は至って冷静なものだった。フィンは些か拍子抜けしながらもアンネの表情を探るように言った。
『んん? ……いや、無い、と思う』
フィンの返答に軽く嘆息し、アンネは後ずさりながら首を横に振った。
『じゃあ御免よ。バイク乗車経験のない人とタンデムなんて、乗りにくくなるしお互いに危険なだけ。雪道なら尚更ね』
背後の木に背中を預けてもたれ、アンネは腕組みをした。
『貴方の国じゃそんな経験しなかったから分からないんでしょうけどね、そもそも、雪道で車輪の付いた乗り物を使うのは、相当怖い事なのよ? 通常の道の何倍もスリップするリスクがあるから、当然事故の頻度も高くなる。だから私はやりたくないの』
予想外に冷静な返答にフィンは面食らっていた。
『……す、スミマセン……』
『分かってくれれば良いのよ』
アンネはバイクに歩み寄りヘルメットを被った。
*
バイクを走らせている間に周囲の空気は確実に冷え込んでいった。雨雲より明度の高い雲が徐々に増えていく空模様から、間も無く雪が降り始めるとアンネは判断した。
『フレディ、ここからの下山は徒歩よ』
岩場の陰でバイクを降りヘルメットを外すアンネの言葉に、サイドカーのフィンは気乗りしない顔を隠そうともしなかった。
『山を歩くのかぁ……しんどそうだな』
口をついて出たその言葉にアンネのこめかみがぴくついた。
『文句あるなら貴方だけバイクと一緒に此処で暮らしてもよくてよ? ついでに熊や狼と仲良くなれるかもね』
『おいおい、冗談きついぜ……』
アンネの皮肉と寒さでひきつるフィンの苦笑いにはお構いなく、アンネはバイクとサイドカーの分離に取り掛かった。
*
二人は分離されたバイクとサイドカーをそれぞれ手押しで岩陰の穴倉へと運んだ。サイドカーを奥へ押し込んだ後、バイクのハンドルを掴んで押し進めながらフィンは湧き上がった疑問を口にした。
『そう言えば前から聞きたかったんだけどさ、何故、インパイに行こうと決めたんだ?』
フィンにしてみれば何気なく口にしただけのその質問は、一瞬にしてアンネの表情を強張らせた。
『……それは……』
アンネが答えにつまっていたその時、静かに冷え込む山に獣の声が響いた。
『……狼‼︎』
アンネの両眼がきつく引き攣った。遠吠えの数からして少なくとも五、六頭は集まってきそうだった。
アンネはともかく、フィンの足腰で狼の群れから逃げ切るには不安要素がありすぎた。アンネは岩陰にしまいかけたバイクの後部座席を掴み足を踏ん張った。
『予定変更‼︎ バイクだけ引っ張り出して‼︎』
『ええっ⁉︎』
『ああもうっ、遅い!』
訳が分からずまごついているフィンごと、アンネはバイクを岩陰の外へと引きずり出した。二人がバイクを出し直したその時、再び狼の鳴き声がこだました。先程よりも近づいている。ぐずぐずしてはいられなかった。
『そのままバイクに跨って! 時間がない!』
アンネはフィンの尻を叩き座席に座らせると、自分もその後ろへひらりと飛び乗った。
『おいおい、俺運転なんか……』
『いいから黙って‼︎』
慌てるフィンへ強引に手持ちのヘルメットを被せ、アンネはフィンの手ごと左右のハンドルを掴む。背後から複数の獣の気配を感じつつ、アンネは手際良く発進準備を進めながらヘルメットの左側へ顔を押し付けはっきりと言った。
『貴方が今からすべき事は三つ‼︎ 顎を引くこと、退け反らない事、そして……』
徐々に増すエンジンの音量に追い立てられるようにアンネの声量も上がった。微かではあるが獣の足音も近づいていた。最早猶予はなかった。
『……私の行動を、邪魔しない事‼︎』
最後の言葉と同時に、バイクは唸りを上げて発進した。正面からの突風による衝撃はフィンの予想を遥かに凌駕していた。早くもアンネの指示遵守は困難となった。
『ぐぁ……っつぅぅ‼︎』
風圧で退け反る身体を強引にバイクへ引き寄せたフィンは左右のハンドルを握りしめようとした。それに気付いたアンネは、咄嗟に両側のグリップを拡げるように指をねじ込んだ。
『お馬鹿っ‼︎ 急ブレーキかかっちゃうわよ‼︎』
『ごっ、ごめんっ‼︎』
バイクの構造など全く知らないフィンに理不尽な罵声を浴びせながらも、アンネはフィンの後ろから器用に手足を伸ばし的確に大型バイクを操った。二人の乗ったバイクは際どいバランスを保ちながら順調に速度を上げつつあった。
スピードメーターの針が真上を指したところでアンネは左後方へ一瞬視線を向ける。狭い視界の中、遠目に狼の影が二匹横切った。狼達の追跡が続いている事をアンネは悟った。エンジン音でかき消され足音や唸り声は把握出来ないが、恐らく右後方からも数匹追いかけて来ているに違いない。本来であればフィンと座席交替したいところなのだが、まだバイクを止める訳にはいかなかった。
(早くこの運転し辛い態勢を立て直したいってのに……‼︎)
前方の道程を確認しながら苛立つアンネの耳へ突然、獣の悲鳴が断続的に飛び込んできた。




