無力
上から差し込んだ光が眩しかった。薄目で見上げるフィンの視界に、突如丸い影が現れた。
『気がついた? 酷い扱いをしてごめんなさいね』
丸い影の被り物が外され、見覚えのあるセミロングが現れた。そのシルエットと声で正体を確信したフィンは、こみ上がる怒りを抑えきれずに言った。
『アンネ、色々言いたい事はあるんだが、とにかくまず拘束を解いてくれ』
*
無事拘束を解かれたフィンは、自分が意識を失っている間の事をアンネから聞かされた。
フィンを気絶させた後、ジークとアンネはフィンの身体を拘束し、ジークの用意したバイクのサイドカーに乗せたとの事だった。
『……で、私はジーク先生の指示通り、貴方と一緒に逃亡してるってわけ。偶々私がバイクを運転出来る人間だったから良いものの、そうじゃなかったらどうしてたのかしらね? ジーク先生は』
ライダースーツに身を包み、サイドカーをゆっくり撫でながら小さく溜息を漏らす。そんなアンネを恨めしそうに見上げ、フィンはぼそりと呟いた。
『……何故、もっと早く言ってくれなかった?』
『ジーク先生の計画の事?』
『白々しいぞっ‼︎』
フィンはサイドカーの側面を拳で叩き、がばりと立ち上がった。鈍い音が静かな森の中に軽く響く。小鳥のざわめきと羽音が空の方から聴こえた。アンネははっとして周囲の気配を探るように四方と空へ視線を向け、耳を澄ませる。そして一息漏らすと一転、鋭い目つきになった。
『貴方ね、私達が追われる身だって分かってる⁉︎ まだ追っ手には気付かれてないと思うけど、下手に目立つ行動は止めて頂戴‼︎』
声を押し殺したアンネの低音にも今度は怯まず、フィンはアンネの肩をがっしり掴んだ。
『……もう一度聞くぞ。何故、もっと早く、言わなかった?』
フィンはアンネを凝視した。普段のフィンからは考えられないほどの威圧感だった。肩を掴む手の力が増し、アンネは痛みに顔を歪めた。しかしフィンの手を振り払うでもなく、痛いと言うでもなく、ただフィンを睨み返した。
『貴方が賛成するにせよ反対するにせよ、先に貴方に話してしまえばウィルに計画を隠せていなかった。だから今日まで黙ってたのよ』
口を開きかけたフィンの顔の前にすかさずアンネの掌が突き出された。フィンは思わずぐっと言葉を飲み込んだ。
『ウィルは必ず邪魔をする。だから絶対知られてはならなかった、だそうよ。ジーク先生曰く』
掌を引っ込め、アンネは緩んだフィンの手をそっと払い背を向けた。しんと静まり返った森の中、アンネはバイクとサイドカーの轍の先を見つめて言った。
『そもそも、先に話してたとして貴方に何が出来た?』
『そんなの分からないだろ⁉︎ 他に、他に何か……方法が、あったんじゃ……』
一瞬言葉に詰まったフィンは、それでも反論を試みた。だがそれ以上の言葉は続かなかった。何の力も持たない自分に出来る事はなかった。それはフィン自身よく分かっていた。唇を噛み無言で項垂れるフィンへちらりと視線を向け、アンネはシートへ乗せていたヘルメットを手に取り弄りながら呟いた。
『……無力なのは私も同じよ。だからこそジーク先生は私にあっさり計画を話したんでしょうね』
その声は穏やかに聞こえたが、ヘルメットを握るアンネの左手にはぐぐっと力がこもっていた。アンネもまた、自らの無力さを嘆き憤っているのだとフィンは理解した。
『……ま、私もただ言いなりになってた訳じゃないわ』
ヘルメットを脇に置いてアンネはフィンへ微笑んだ。
『あとはウィルが何とかするでしょ。私達は、ウィルと合流出来るまで何処かに潜伏すればいい』
アンネの言葉の真意は分からなかったが、フィンは静かに頷いた。湿っぽい空気を払拭しようとするかのように、アンネはぽんと掌を打った。
『そうそう、貴方に渡す物が幾つかあるんだった!』
アンネはサイドカーの内部に頭から突っ込み数分間ごそごそと音をさせた後、一個の潰れたダッフルバッグを引っ張り出した。
『それは?』
『此処から先、必要な装備一覧よっ。まずはこれ』
アンネは一番表にある小さなポケットから二枚のカードを引き出し、フィンにぽいと渡した。それを受け取ったフィンはしげしげと眺めた後、困惑気味にアンネへ尋ねた。
『……何? これ』
アンネは目を丸くしてフィンを見つめたが、直ぐにフィンの言葉の意味に気がつき、ぱちりと指を鳴らした。
『ああ、共用語だから読めないのか! それは身分証よ』
アンネの言葉にフィンは手元のカードを二度見した。
『身分証……俺の?』
『貴方のだけど、正確には貴方のじゃないわね』
アンネの禅問答のような答えにフィンは予想通り困った顔を見せた。アンネはふふっと軽く笑い説明を補足した。
『偽造身分証って事。貴方は今日から別の名を名乗る事になるのよ。これから先の移動は身分証がないと苦労するからね』
『そうか……』
フィンの脇からカードを覗き込み、アンネはカードの文字を指差しながら読み上げた。
『貴方は今日から……えっと、フレディ・ライト』
『……慣れるまで時間がかかりそうだなあ……』
フィンは頭を掻きながらげんなりした顔で項垂れた。その手からアンネはもう片方のカードをぴんとつまみ上げた。
『ちなみに私は……アン・シャーリーか。案外普通ね』
アンネは非常に残念そうにそう言うとため息をついた。そんな事にもお構いなく、フィンは軽い羨望の眼差しをアンネへ向けた。
『アンネは良いなあ。殆ど呼び名を変えなくて済むじゃん』
お気楽なフィンの言葉にアンネは口を尖らせ眉を顰めた。
『えー? 私は寧ろ全然違う名前にしてほしかったわ‼︎』
カードをひらひらさせながら不満気に文句を言うアンネの意図を図りかねたフィンは、首を傾げて遠慮がちに尋ねる。
『また何でわざわざ……?』
アンネはひらりとサイドカーの上へ立ち上がると、舞台女優よろしく恭しい所作で一礼し、片手をそっと胸に添えた。
『だって、折角今までとは違う人間として生きるようにして貰ったんだもの、より自分の本質に近い名前をつけたいじゃない?』
アンネの言葉は、まるっきり夢見がちな少女のそれと変わらぬものだった。フィンがぽかんとした表情を見せたのも無理からぬ事。然しアンネはフィンに対し軽く小馬鹿にするような視線を向けたのち、気を取り直すように首を振った。
『ま、それは追い追い説明したげるわっ』
(俺は別に説明なくても困らないんだが……)
フィンは即座にそう思ったものの、アンネの言及が面倒くさくなる事を予測し口を噤む事にした。
『あと、これはこの先に必要な服』
アンネは更にバッグの中から灰色のふかふかした上着を渡した。サイズ確認の為袖を通してみたフィンは、そのごわごわした慣れない感触に苦笑しながら呟いた。
『随分大きな上着だな。凄く暖かい……と言うか、暑い位だよ』
自らの服を着込みながら、アンネは当然だと言わんばかりに言葉を返した。
『そりゃそうよ、これから銀白の世界へ行こうとしてるんだから。変装も兼ねて、きちんと防寒出来る服を用意したわ』
『銀白の世界??』
聞き慣れない言葉にフィンは首を傾げた。
『あー、フィンの国ではあまり見られないんだっけか。あの街ではずっと雪が降り積もるの。だから一年を通して銀白の世界なのよ』
アンネは空を見上げてそう言った。
*
アンネとフィンがジークの元を旅立ったその日の晩。
二人は崩れかけた廃屋で休息を取ることにした。
快適な気温だった昼と異なり、夜は冷え冷えとした空気が肌を刺した。アンネは手際よく毛布と食料を準備し暖炉で火を起こした。
暖炉で温めた缶詰のスープを啜り、フィンはアンネの顔を見上げた。
『……アンネ』
『アン、でしょ?』
アンネは間髪いれずフィンの言葉を訂正した。
『暫くの間、互いの名前を覚えるために偽名で呼び合うと決めたばかりでしょが、フ、レ、ディ?』
缶詰に突っ込んでいたスプーンを振りながら注意を促すアンネに、フィンは主人に叱られた犬の様に項垂れた。
『うぅ……すまない、アン』
フィンのしょんぼり顔をアンネは軽く笑い飛ばした。
『冗談よ。で、何?』
アンネが全く怒っていない事を上目遣いで確認し、フィンは少しだけ緊張を解く。
『次の街……えーと……』
『インパイ?』
『そう、インパイだ』
表情を曇らせながら暖炉の炎を見つめ、フィンは静かに呟いた。
『ちゃんとインパイに来るかな、ウィル達』
『それは大丈夫でしょ。私達の偽名がわかれば居場所を調べてくれるわよ』
全く心配などしていないと言いたげなアンネの口調に対し、フィンは不安気に言葉を返す。
『でも、その……もし、もしさ』
『ジーク先生の計画が失敗した時の事を気にしてるの?』
アンネはわざと軽く言ったが、フィンの表情は晴れなかった。
『もし先生が死んでしまったら、ウィル達が俺達の場所を調べる術、無くなるんじゃないか?』
『その時は、私の置き土産が役に立つ筈よ』
スープに浮かぶ芋の欠片を掬い上げ、口に放り込みながらアンネは微笑む。
『それより今は、私達が無事に辿り着く事を考えないとね』
アンネのウインクにどう答えるべきかが分からなかったフィンは、曖昧に微笑み返した。




