星空の下の会話
ウィルの住居は持ち主のいなくなった小さなコテージを最低限改良したのみの簡素なものだった。大きめの窓から蒼い月光が差し込み、部屋の内部は比較的よく観察できた。
ベッド、小ぶりのデスクと椅子1脚のセット、クローゼットの他に家具類はなく、デスクの上にはランプ、時計、小さな卓上ミラーが置かれていた。男の部屋に鏡があるというのは少し奇妙だが、とフィンは首を傾げた。調理スペースは見当たらなかったが、ウィルによると外に水場と簡易的なかまどを作ってあり、そこで煮炊きするとのことだった。
『俺は基本的に屋根の上で眠るんだ。だからフィンはベッドを使ってくれ。埃っぽいから少し払ってから寝るんだぞ』
小さく丸めたタオルを片手にウィルはてきぱきと指示を始めた。
『トイレはその扉。水浴びや洗顔は外の水場で。タオルも外。ここらは割と暑いから、湯を沸かさなくても水で十分とは思うけど、沸かしたくなったらいつでも言って。他、わからないことあったら起こして。じゃ、おやすみ』
それだけいうとウィルは部屋の隅のはしごを上って屋根裏へと消えた。掛け布団の上からベッドに倒れこみ、フィンは一人で感慨に耽った。
……ベットで眠るなんていつ以来だろう。
少なくとも記憶のある一か月の間、野宿以外の選択肢はなかったのだ。スプリングが弱くなってはいたがベッドマットの弾力は土の上より遥かに心地よく、フィンはいつの間にか深い眠りに落ちていた。
*
ウィルは屋根の上で仰向けになっていた。しかし眠っていたわけでも、変わりばえしない星空と二つの蒼い月を見上げていたわけでもなかった。
静かに横になっていたのは集中を途切れさせないためだった。頭の中――正確には「精神空間」といった表現がしっくりくるかもしれない――でリリィと話すには、それなりの集中力が必要だった。通常時は独語するが如く声に出して会話するのだが、眠っているフィンを起こしても申し訳ないし、一人でぶつぶつ話しているのは奇異に思うだろう。少なくとも今日に関しては静かにした方が良さそうだった。
*
〈はいはーい、リリィちゃんですよっと〉
脳内イメージで暗闇に光の球が浮かび上がると同時に頭の中で女性の凛とした声が響いた。ウィルにとっては違和感しか感じない状況だ。
(……取り敢えずお前に『ちゃん』付けは似合わないからやめろ)
真っ先に指摘すべきと考えた事項を挙げると、リリィは大袈裟に憤慨した。
〈酷いっ! 元はと言えば、私の姿をきちっと形成してくれないウィルが悪いんじゃないの‼︎〉
リリィはエクストラの癖にやたら形式に拘るきらいがあった。ウィルにしてみればリリィが女だろうが男だろうが問題ではなかったが、リリィは違った。口を開く度に女性の格好に拘るリリィにウィルは呆れていた。
(またその話か。そんな事しなくても俺達の会話には支障ないだろ)
嘆息とともに漏らした言葉はリリィを更にヒートアップさせた。
〈私にはありますっ‼︎〉
リリィの言葉と同調するように光の球がトゲトゲしく変化した。もし実体があったら、浮気性の彼氏を責め立てるビキニの鬼型宇宙人が如く物凄い形相で喚き立てているところなのだろう。下手すれば放電すらしかねない。
……女という奴はメンドクサイ。
あまりの面倒くささからか、リリィの変てこな知識と自分の感情が混線してしまった事にウィルは気付いた。リリィと共に15年生きて来たが、リリィの記憶や知識を自分のものであるかのように話せるという事実には未だに慣れていなかった。ウィルは知らず溜息を漏らしていた。
そんなウィルの気持ちを(当然同じ精神空間にいるので伝わってはいるのだが)気にも留めず、リリィは(そんなことをせずとも十分伝わっているのに)思いのたけをぶち撒け始めた。
〈私はグラマラスで色気たっぷりの美人女性がいいの! 守銭奴の女除霊師とか、ライダースーツでバイクを駆る女怪盗みたいな!〉
取り敢えず呆れることしか出来ないが、ウィルはそれでも冷静に真面目な応対を試みた。
(……お前の言わんとするイメージはわかった。高慢で男をてだ……)
〈性格じゃなくて‼︎ 外見だってば!〉
……うっかりからかってしまった。ウィルは首をすくめた。ウィルの「うっかり」のせいでリリィの愚痴はさらに長引いた。
〈…それなのに貴方は、多感なお年頃だというのに、エロ本の一つも見やしないし、ナイスバディのお姉さんに見とれる事もないっ! これじゃ、貴方の記憶からアバター化する事が出来ないじゃないの!〉
光の球はバタバタと暴れまわるようにウィルの周りを回り始めた。リリィが時々口走る元の世界での専門用語の中には、リリィと知識を共有しているウィル自身すら理解に苦しむものもあった。アバターなどという言葉はこの世界で聞いた事もなかったが、リリィの記憶から察するに何かの画像を自分の外見として利用するテクノロジーだろうか。それはともかく、結論は決まっていた。
リリィの訳の分からない要求を叶えて、エロ本の写真が頻繁に頭にちらつくようになったら死にたくなる。絶対嫌だ。
〈このままじゃいつまでも野望が叶わないわっ! ウィル! 私に人格を譲りなさい! 幸い貴方は綺麗な顔立ちをしてるし、完璧に女装してやるっ!〉
リリィの愚痴は往々にしてこの結論に帰着し、その度にウィルは軽く憤慨していた。何故わざわざ男の俺が女装せねばならんのだ。何気にコンプレックスなんだぞ、この顔は。
……というか、毎度毎度、このやり取りにも飽きてきた。そろそろ特殊能力だけ置いて出て行って欲しい。
〈…今、ウィル、凄く酷い事を考えたわね〉
ほら、ここでいじける。ワンパターン過ぎる。茶番は夜が明ける前に切り上げねばならない。そうウィルは思った。
(…悪いが要件は一つだけだ。リリィがOK出したからフィンにペクトラの話をしたけど、後は何処まで話していい?)
光は小さくなり、羽毛のようにふわふわとウィルの前へ落下した。
僅かの静寂の後。
〈…難しいわね。何処まで理解できるかしら、彼〉
(説明して良いんじゃないのか? 向こうも複雑な事情がありそうだし、多分長い付き合いになるぜ? それなら早めに理解して貰った方が……)
ウィルの言葉を遮るかのように、光はゆっくり横に揺れた。
〈……彼はペクトラじゃないから。私達の立場の複雑さを本当に理解するなんて、まず無理よ〉
(……まあ、ね)
正論だ。
アホな思考回路も持っているが、状況判断の的確さは流石エクストラと言うべきだろう。
〈……いいわ。時期をみて、私が直接話す。今は彼の身元特定を急ぎましょう。明日にでも、例の天然ゆるふわ学者を訪ねた方が良いわ〉
(……わかった)
そのまま会話を終え、ウィルは真の眠りについた。