医師の命令 /3
ウィル達の入院後四日目の昼。
ジークに呼び出されたアイザックは、書斎に着くなり大きな茶封筒を一つ渡された。
「あの青年、記憶喪失で国から追われている身なんだとよ」
自分の椅子にどっかと腰を下ろし、ジークは唐突にそう口にした。青年とはフィンの事だろう。ジークの言葉を右から左に流しつつ、アイザックは茶封筒の中身を引き出した。
「CT画像……フィンですか?」
ジークは一つ頷くと噛んでいた飴の棒を口からつまみ出し、渋い表情でアイザックを見つめた。こんなに真剣な先生の顔はついぞ見たことがないと、アイザックは画像に目を走らせながら身構えた。
「流石に驚いた。そんな物が見つかるとはな」
アイザックが異常所見に目をとめたタイミングを見計らい、ジークは飴で画像を指しながらそう言った。
「何ですか、これ?」
両眼を寄せて画像を食い入るように見つめるアイザックに向け、ジークは首を横に振った。どうやら先生ですら正体のわからない所見、ということらしかった。
「念のためウィルの反応も確認したが、やはり何も知らなさそうだ」
「ウィルの性格からして、知ってたら放っておかないですよ」
「違いない」
ジークは小さく肩を竦めてみせた。
「とにかく、これは予想以上に厄介な事になりそうだ。ウィルもミーチャも、これ以上首を突っ込まない方がいい」
「先生、それって……」
どういう意味ですか? と聞こうとするアイザックを、ジークはジェスチャーで黙らせた。立てた棒に人差し指を添えて、きゅっと絞った唇に飴を押し当てているその滑稽な仕草に似合わず、彼の目つきはいつになく真剣で鋭かった。
「……裏の知り合いに身分証を三人分作らせてる。あと二週間程は時間がかかるから、その間、病院の特別室で匿うつもりだ。但し、不正アクセスをした者の目的があの青年ならば此処も安全とは言いがたい」
飴玉を口に含み、ジークは声量を少しだけ落とした。
「お前は顔が割れていない筈だ。だから直ぐにここから逃げろ」
ジークの思いがけない命令に、アイザックは言葉を失った。
束の間の沈黙の後。
「俺一人此処から逃げたところで、事態は何も変わりませんよ」
眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げ、アイザックは冷静な分析を口に出した。
「そんな事はわかっているさ」
ジークは目を細めた。飴玉を噛んだ音がざりっと響いた。
「だがな、お前が此処にいてこれ以上出来ることはない。それも事実だろう?」
残念だが、全くもってその通りだった。
自分の専門分野で出来ることは、データ改竄、アクセス時に動くトラップ、セキュリティープログラムのアップグレード等、思いつく限り一通りやってしまった。此処でミーチャ達に出来る事はもう残っては居なかった。
黙って唇を噛むアイザックを元気付けようとするかのように、ジークは明るく言った。
「大丈夫だよ、こっちの事は。だからこそ、偽造データをそのように作って貰ったんだ」
ジークはアイザックに今回の仕事の依頼をした際、ある人里離れた廃病院にウィル達がいるかように、偽造データを作らせていた。つまり不正アクセスをした連中は、今頃ウィル達がその廃病院に匿われていると思っている筈なのだ。もっとも、そのデータの元端末を辿られた場合は無駄な仕掛けになるが、此方の端末へアクセスした時点で逆にクラッキング出来るようにしてあるし、恐らく此方のトラップを警戒して、相手は軽々に再アクセスを試みようとはしないと踏んでいた。
「しかしあの病院は、先生の過去を封印した場所じゃ……」
ジークへ上目遣いの視線を向けるアイザックに、ジークはきっぱりと言い放つ。
「だから良いんだ」
何かを決意した様に揺るぎない視線から、アイザックは不吉な気配を感じ取った。
「まさか、あの病院、消すつもりじゃないでしょうね?」
ジークは椅子の背もたれに身を預けた。椅子がぎしりと鈍い音を立てて軋んだ。
「いつかはそうするつもりだったんだ。少し予定が早まっただけ。そうだろう?」
いつもの軽口を言うようにそう呟くジークの表情は、心なしか悲しそうに見えた。
「先生がいいと仰る以上、俺に止める理由はありませんよ」
「お前なら、合理的にそう言うと思っていた」
あくまで淡白なアイザックの答えを聞き、体の前で両手の指を立てて組みながら、ジークは満足げに呟いた。
/
ジークの部屋から退出した後、それまで黙っていたミーチャはアイザックへと食いついた。
(ちょっと、アイザック! 先生の言いなりになって、ただ逃げるつもりですか⁉︎)
〈……そんな訳ないだろう〉
アイザックは眼鏡を外して頭を軽く振った。
〈一旦ここは離れるが、逃げるためじゃない。ウィルの事だ、俺達に何か面倒な調べ物を頼んでくるだろう。だからそのついでにクラッキングの犯人を特定する。本部の端末の方が調べやすいだろうしな〉
*
アイザックの予想は当たっていた。数日後に本部に戻る話をウィルに告げた際、ミーチャはウィルから調べ物を預かった。
ーーフィンに関係のありそうな怪しい組織を片っ端から調べてくれ。
握らされた紙切れの中身があまりに漠然としている事に苦笑いすると、ミーチャは読み終えたその紙に火をつけた。




