偽りの診療録 /1
アイザックはウィルの左手を軽くはたき上げた。そして渋々ランプを地面に置き、道の脇にあった窪みへと顎をしゃくった。
「酷い匂いには変わりないが、ここよりは幾分ましだ。こっちで話してやる。但し、幾つか約束しろ」
アイザックの眼が眼鏡の奥で光った。
「ウィルは話を聞いたら俺の言う通りにしろ。それからこれはリリィには完全にオフレコだ。交替出来ないよう鏡も預かる。それに従えないなら一切話さない」
右手を差し出すアイザックに戸惑いを見せたが、ウィルは一度ぎゅっと閉眼し、そしてゆっくりと決意に満ちた眼を開いた。髪を束ねていたヘアゴムを外して左手首に巻きつけ、左耳に手持ちの耳栓を詰めると、ポケットのコンパクトをアイザックに手渡した。
「……リリィを『閉め出し』た。これで彼奴には聞かれない」
アイザックはコンパクトを受け取ると、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。そしてウィルが隣へ腰掛けたのを確認し、眼鏡を中指でくいと押し上げた。
「フィンは朝一番でアンネと一緒に逃亡している。ジーク先生の指示でな」
「どういう事なんだ。お前は何故それを知ってる?」
「全ては、三週間前から始まってたんだよ」
*
三週間前、ウィルを病院へ運び込んだ直後のこと。ミーチャはジークから仕事を幾つか頼まれた。それはウィル達の入院手続きの偽造、および病院のデータセキュリティープログラムのメンテナンスだった。ウィル達自身の名前で他病院に入院したという偽の記録を作り、真の記録は別に保存場所を設定した。そしてそれらを外部に悟らせないようプログラミングし、防壁をリニューアルしたのだ。
余談ではあるが、コンピューターの関わる知識にかけては、ミーチャとアイザックは誰にもひけをとらなかった。それが彼らのペクトラとしての本来の能力だった。実際そのスキルで便利屋の仕事も幾つもこなし、二人の実績は誰もが認めるものだった。ジークの病院が電子カルテ化される際もミーチャがプログラムを全て作っており、入院手続きの偽造は朝飯前だった。
翌日、アイザックはミーチャの仕事をダブルチェックする為に偽造データの確認を行った。その際、不審な不正アクセスが残っている事に彼は気がついた。それは昨日ミーチャが作ったばかりのプログラムや偽造したデータのみが閲覧された跡だった。
「マジかよ、昨日の今日で……」
アイザックの口から思わず言葉が漏れた。
無理もなかった。自分達の関わったデータに即日でクラッキングをかけられた事など、把握している限りでは一度もなかったのだから。
(そもそも先生の病院のデータは、院内ネットワークの端末でしか利用出来ないですよね? 外部の接続とは繋いでない筈ですし)
ミーチャの言葉にアイザックは頷いた。
「ああ……つまり、病院内に内通者がいるってことに……んん? いや、待て」
リズミカルにキーを叩いていた指を止め、アイザックはパソコン画面を見つめ舌打ちした。
「一箇所だけ、外部のネットワークとオンラインになってやがる」
アイザックの視線は、ネットワーク接続一覧の中で唯一青文字に表示された一行へと釘付けになった。その端末は、ジークの書斎に設置されたコンピューターのものだった。
「ジークの奴、あれだけ外部のネットワークに繋ぐなって言っといたのに……」
顔を顰め舌打ちするアイザックをミーチャは窘めた。
(まあまあ、そうかっかしないで下さいよ。とにかく、この端末からデータ流出したって事ですか。じゃあ、意図的なクラッキングではなく偶然……)
ミーチャの予想を遮る様に、アイザックは首を横に振った。
〈いや、これは意図的なものだ。タイミングが良すぎるし、そもそもお前の偽造データにピンポイントでアクセスするなんて普通じゃない。万一のためにかけておいたセキュリティーロックすら突破している。素人の芸当じゃねぇだろ、これは〉
アイザックは引き続きクラッキング元の特定を始めたが、直ぐにそれは徒労であると分かった。幾つもの国のサーバーを経由した跡があり、アクセス元の国籍すら特定出来ない状況であることは自明だった。
〈間違いない、プロだな〉
アイザックは眼鏡を外し、眉間を指でつまんだ。
(ウィル達が戦っていた相手、でしょうか……?)
「さあな」
アイザックは眼鏡についた埃を丁寧に拭きながらぼそりと呟いた。
「とにかく、速やかにジークへ報告だ。詮索は後にしよう」
眼鏡をかけ直し、アイザックはパソコンの電源を落として立ち上がった。




