言い知れぬ不安
夕方近くなって、アンネはフィンと共に病室へ戻って来た。二人が扉を開けて見たものは――
『ああ、お帰り、二人とも……』
新聞紙の散乱した床と洗面台に置かれたハサミ、そして、長いままの髪を振り乱し、ベッドに伏せ手を振るウィルの姿だった。その惨憺たる有様にフィンは眼を見開いた。
『どうしたのさ、これ……』
『ウィルは髪を切りたかったみたい。でもリリィが嫌がって。結局切れなかったようね』
ウィルの代弁をしながらアンネはベッドへ腰かけ、その上を艶やかに流れる髪にそっと触れた。リリィの肩を持つわけではないが、ウィルの髪は確かに、アンネから見ても傷つけるなんてもったいないと思える程、美しかった。だが男のウィルにとって、それはやはり長い頭髪でしかないのだろう。だから安易にハサミを入れたくなるんだろう――そうアンネは推察していた。そしてそれは概ね当たっていた。
『リリィは、どうして髪を切りたくないのかしらね?』
敢えてアンネはそう尋ねた。ウィルは枕に埋めていた顔をズリズリと上げた。
『……男だからなんだ』
『男だから? 一体どういう意味⁇』
丸椅子をウィルのベッドに引き寄せ、フィンは口を挟んだ。
『昔からリリィの奴は、俺に女装をさせたがってた。俺が女装なんか似合わない位ゴツい顔だったら、そんな事は言わなかったんだろうがな』
ウィルは溜息混じりに言った。その言い分は的を射ているように聞こえた。しかしその一方、アンネはそれが核心ではないのではと感じていた。
『それを全力で拒否したら、せめて髪を伸ばせとごねてな。あんまりうるさいから、それだけは約束してやったんだよ』
視線の先の前髪をつまみ上げ、ウィルはそれを弄びながら仰向けに寝返った。そして髪を離し、白い天井へ右腕を伸ばした。
『多分リリィは、女性らしい格好への憧れがあるんだと思う。だから髪を伸ばしたいんだ。とはいえ、今回の手術で頭を剃られ、残った髪で隠すのも難しい。髪を結ぶと創部が痛いし、どうせ今のままでも誤魔化せないなら、俺はこの際、バッサリ切ってしまいたい。それなのにこいつときたら……』
そこで、ぼやきっぱなしのウィルのしかめ顔をアンネは覗き込んだ。
『ふうん。じゃあ、傷が隠せて、髪を結ばなくていい髪型なら良いのよね⁇』
『まあ、それなら納得できる』
『分かった。その件、私に任せてみてよ』
アンネは満面の笑みになった。
*
『アンネの奴、どうするつもりなんだろうか』
フィンに目配せをして病室を後にするアンネを見送り、ウィルは床の新聞紙を片付けながらぼそりと呟いた。
『うーん、俺に聞かれてもなあ……』
フィンは頬を人差し指で軽くかき、困ったように答えた。それをとくに期待もしていなかったと言いたげに一瞥し、ウィルは洗面台の鏡を見つめた。
『リリィはわかるか? 彼奴がどうするか』
『わからないわ。アンネのやる事は私にも予想がつかないもの』
『そりゃそうだ。妙な格好をさせられなければいいんだけどな』
『私は、むさ苦しくならなければ何でもいいわ』
『それは俺に喧嘩売ってるのか⁇』
ウィルとリリィが鏡ごしに言い合う光景は、この数週間でフィンにとっても見慣れたものとなってはいた。しかしその時のウィルは、疲労のせいか表情が暗く、口調の違いがなければ二人の会話は区別がつかなかった。
フィンがますます困惑顔でこちらを見ていることに気がつき、ウィルは不毛な議論を早々に切り上げることにした。
『まあいいや、それよりさ……』
ウィルはぎこちなく鏡に背を向けフィンを見た。
『ジークに何を聞いた?』
フィンは唐突すぎる話題転換に眼をぱちくりさせた。ウィルの真意を図りたかったが、疲れ切った表情からは何も読み取れなかった。
『いや、別に……。今日の検査も、取り敢えず問題はなさそうだってさ』
首を傾げて答えるフィンから視線を外し、ウィルは考えを巡らせた。
(ジーク、いつピンの事を言うつもりなんだろうか……。そろそろ彼奴の言うところの『準備』が終わる頃だろう。というか、彼奴に任せちまってるけど、本当にちゃんと考えているんだろうなぁ……)
『あ、そう言えば』
思い出したようなフィンの声に、ウィルの思考は一時停止した。
『どした?』
『明日は朝から呼び出されてる。よくわからないが、時間のかかる検査らしい。遅くまでかかるけど心配しなくていいって。悪いけど飯は先に食べててくれ』
『……また検査、か』
ウィルの脳裏に、言い知れぬ不安がよぎった。




