少年の秘密
店を去る時、精一杯の感謝の気持ちを込めてフィンは老夫婦に一礼した。背筋をピンと伸ばした姿勢と節度ある挙動は何処となく軍人を思わせた。
この世界では軍隊という存在は形骸化しているのが実情だった。他国からの侵略を受ける事はまずなかったし、地震や洪水などの災害が起きる事もほとんどない為、需要がないのだ。まともに機能している軍は、世界中探し回っても両手で数える程しかないのではなかろうか。だからこそ、そんな世界できちんとした所作を見せる軍人はかなり異質な存在だ。厳しい訓練を積んでいた脱走兵だろうか、などとウィルは考えていた。
実のところ、ウィルはフィンの話を全て信じた訳ではなかった。記憶喪失である事を客観的に証明する方法などないのだから、疑うのは当然だ。 しかし、餓死しかけてまで記憶喪失を装わなければならない理由はウィルには思いつかない。当面は信じるしかないと言うのが正直なところだった。
(あー、無性に殴りたい、てか蹴り飛ばしたい……)
そのいかにも人畜無害といった風貌のナヨナヨ青年に言い知れぬ敵意を感じてはいたが、ウィルも無意味な喧嘩を売る程馬鹿ではない。妄想の中でフィンをタコ殴り、程度に止めておくことにした。
*
山麓の自宅に向かいながら、ウィルは間を埋めるのも兼ねて身の回りの事を思いつくままに話し始めた。
『ここは人口数万人程度の小国だが、温暖な気候で産業はそこそこ栄えているし行政も一応安定している。他国同様、生活に困る者は殆どいないだろう。……まあ、敢えてこの国の不安要素を挙げるとすれば……』
ウィルはそこで一旦言葉を切った。フィンは黙って首を傾げたものの、ウィルはそれには答えず言葉を濁した。
『……いや、その続きは今度にしよう。それより、フィンの方から俺に聞きたいことはないのか?』
当然あった。ウィルと出会ったあの時からずっと抱えていた疑問だ。
『何故、ウィルは俺と同じ言葉を話せる? 他の言語も話せるみたいだから、同郷という訳ではない気がする。それにその若さで喧嘩慣れしているというのも引っかかる。君は一体、何者なんだ?』
少しの間をおいて。
『……あれ、説明、まだだっけ』
『うん』
ウィルは急に立ち止まると眉間にシワを寄せ、考え込むように目を閉じてしまった。フィンは暫く待っていたが、あまりにウィルが動かないので不安になってきた。フィンが恐る恐る顔を覗き込むと同時に、ウィルはばっと眼を見開いた。フィンは驚いてひっくり返りそうになったが、ウィルはそんな事も気にせずあっけらかんと言った。
『まあ、隠す事でもないんだけどさ。俺はペクトラなんだ』
『ペクトラ?』
フィンは言葉を反復し首を傾げた。
*
『そう、ペクトラ。知らない?』
『うん』
きょとんとした顔でフィンは答えた。想定の範囲内だ。ウィルはペクトラの概要を一から説明することにした。フィンとは長い付き合いになりそうだし、少しでもペクトラについて知って貰った方が後々不便がないだろうと考えた。
『ペクトラって言うのは一つの肉体に二人分の人格が入った状態で産まれた人間の呼び名だ。存在が確認されたのはまだ数年前の話だから、詳細は全然分かっていない。自称専門家っていう奴らが目下研究中なんだと』
フィンは困惑気味に目を瞬かせた。ウィルの説明の意味をイメージすることが出来なかったのだろう。無理もない。一人の身体に一つの人格、それが通常の人間の認識だ。ウィル自身、逆の立場ならばそんな人間がいる可能性すら思い浮かばないと思っていた。
『……一つの人格が分裂してるのか?』
『違う』
フィンが辛うじてイメージし得たらしいその返答を、ウィルは即座に否定した。
『さらに言うなら、くしゃみしてマシンガンをぶっ放したりもしないし、三つ目の妖怪の生き残り、ということもないぞ。』
『……?』
フィンの困惑した表情を確認するまでもなく、ウィルは自分が喋りすぎた事に気付いた。
(しまった、うっかり口を滑らせた……こんな話題、ペクトラ同士ですら通じるか怪しいもんだ……)
『いや、こっちの話』
ウィルは軽く咳払いし不穏な空気をリセットした。
『統合失調症や解離性同一症、或いは狐憑きなどのオカルト的要素とかと間違えられやすいんだけど、ペクトラは、それらとは明らかに異なるんだ』
『と言うと……』
『ペクトラにはいくつか共通点がある』
ウィルは人差し指を立てて振りながら本題の説明に戻った。今度のはこの世界で自分が得た重要な知識だ。説明を続けるウィルの歩調と口調は徐々に早まっていた。
『まず、ペクトラの二つの人格――研究者達は〈オリジナル〉と〈エクストラ〉って呼んでる――は、元々お互いの存在を認識できている。でも肉体は一つだろ? それだけだと人格同士で喧嘩が起きそうなものだけど、ペクトラの二人格に関しては何故かその辺り協調的で、普通は一個体として振る舞っている。そのため互いの記憶を共有している事が多い』
『……つまり?』
『一方の人格の行動をもう一方が把握出来ない、なんて状況は、基本的には存在しないって事』
正確には記憶を完全分離させる事自体は不可能ではなかった。しかし面倒くさがりのウィルがわざわざそうする必要性は今までなかったし、これからもあるとは思えなかった。フィンが把握する必要性は更に低い知識だと言えた。
『じゃあ今の俺との会話も、もう一方の人格は把握していると』
『そう。だから俺と話してる時に、いちいちどっちと会話してるかを考える必要はないよ」
『……考える必要があったら、俺はウィルと話す時にすごく困る』
フィンのしかめ面が妙に滑稽でウィルは吹き出した。
『そうだろうね。で、ここからが本題。二つの人格のうちの片方、所謂エクストラは特殊なテクノロジーを持った古代文明に関わっているんだってさ。そのせいだって言われてるけど、ペクトラの中には常識外れのことが出来る奴がいる。俺もその一人』
自分の鼻を親指で指しながらウィルはほんの少しだけ得意気に言った。
『……俺はね、耳で聞いた言語は大抵話せるんだよ。自分でも理屈はわからないけど、今までに聞いて理解できなかった言語はない』
『……どんな言葉でも、聞いただけで?』
『ああ、話せる。それが明確な意味を持つ言葉であれば』
『凄いな……』
フィンは素直に感嘆の言葉を述べた。しかしウィルは首を横に振った。
『いや、ペクトラの中じゃ地味な方。でも思ったよりも便利なのは事実だね』
『そうか、それで……』
フィンの納得の意を示す相槌にウィルは強く頷いた。
『あの時フィンの独り言を聞いたから俺は話せたんだ。で、その能力は俺のエクストラ、リリィのおかげってわけ』
『リリィ?』
再び未知の単語が出てきてフィンは即座に反復した。蛇足だと思いつつもウィルは説明を追加せざるを得なかった。
『ついでに補足しとくと、エクストラの人格は元々名前を持っている事が多い。何処かで何らかの生命体として生存していて、その時の名前を覚えているんじゃないかって話だ』
フィンは目をしぱしぱさせてウィルの話を聞いていた。自分の理解力の限界が見えて来たと感じているようだった。
『現在の科学者達は、エクストラという未知の文明で生まれた人格――人間でないかもしれないものに人格というのも不自然なんだか、まあそれは置いといて――がいて、それがハイテクな技術によって人間に寄生した、それがペクトラの本態なんだ、と考えているらしい。リリィに言わせると厳密な正解じゃないみたいだけど……』
ウィルは一旦長めに溜息を漏らし、固かった表情を一気に緩めた。
『結局俺にはどうでもいい事だし、家も見えてきたから、そろそろ難しい話はやめてもいい?』
ウィルの笑顔にフィンは心底ほっとした。その方がフィンにとってもありがたかった。話が難しすぎて途中から目眩がしていたのだ。