眼鏡男の悪口雑言
「気が付いたんですね? ウィル!」
ミーシャの安堵した声と三人の涙の滲んだ笑顔に、ウィルは現実世界へ戻ってきたことを悟らされた。
「……どうしたんだ? 皆」
「どうしたんだ、って、こっちの台詞よ!」
ぼうっとする頭でようやく捻り出されたウィルの言葉に、真っ先に声を荒げたのはアンネだった。
「気がついたら貴方、揺すっても叩いても反応しないんだもの。死んだかと思ったじゃない」
泣きながら怒るアンネの隣で、フィンもそっと青い顔を覗かせた。
『二人ともずっと取り乱してた。ウィルが全然反応しないから。大丈夫なのか?』
――随分賑やかな事になっているなあ。
ウィルは他人事のように感じていた。それよりも、全身を襲う倦怠感と段々強まっている吐き気の方がウィルにとっては問題だった。
「……気持ち悪い……病院、まだか?」
息も絶え絶えに声を発するウィルに、ミーシャは妙だと言いたげに首を傾げた。
「あれ、乗り物酔いですか? ウィルは僕のヘリの運転では酔わないと思ってたんですが。今も別に揺れてなんか……」
「違うんじゃない?」
ウィルのただならぬ雰囲気にアンネが呟く。アンネには事の重大さが見え始めていた。
「乗り物酔いじゃないって事ですか?」
まだ状況を理解していないミーシャに、ウィルはぼうっとする頭で話しかけた。
「アイザックに聞いてみろ。彼奴なら多分わかるだろうさ」
「相棒は今休憩時間です……ヘリを持って来るのに相当働いて貰ったので……」
ミーシャは叱られた子犬のように項垂れた。こういう解説は頭の切れるアイザックに任せてしまいたいのだが、出てこられないのならば仕方ない。推測でしかないが、状況の解説は自分ですることにしよう。
「……さっき彼奴に右側頭部を殴られた。一旦気絶した俺は直ぐ目覚めたんだが……」
ウィルは殴られた頭に添えた右手を動かそうとした。が、うまく動かせず直ぐに断念した。
「そのあとから、リリィの声がよく聞こえなくなって……少しして、身体の具合がおかしくなってきた」
話していないと意識がぶっ飛びそうな位、全身がだるかった。それでも、意地でも話していたほうがいいように思えた。たとえ事態が好転するわけで無いことが、わかってはいても。
「これはあくまで、明確な根拠などない、ただの推測だが……俺は今、硬膜下血腫を起こしているかもしれない」
ウィルの言葉に、ミーシャとアンネは絶句した。
「つまり、こう言いたいんですか? 今ウィルの頭の中で殴られた際の出血が続いていて、頭を圧迫し続けている、と」
「頭の中というと、少し語弊があるが……大体そんなとこだよ。それがリリィの声の聞こえない原因だとしたら……早く血腫除去をしないと、リリィと話すことが、二度とできなくなる」
「リリィ以前に、ウィル自身が危ないでしょうが!」
言葉を紡ぎながらも最早目の焦点が合っていないウィルに、アンネは叱り飛ばすように叫んだ。ウィルは目線だけ動かしてアンネの方を見る。
そして、ウィルは微笑んだ。
「俺が死ねばリリィも死ぬ。でもな、リリィがいなくなっても俺は死ぬ訳じゃない」
ウィルの右眼から、涙が一粒、流れ落ちた。
「……リリィはずっと、俺と一緒に生きてきた……俺が彼奴を守らなくてどうする」
その言葉にミーシャの顔が苦しげに歪んだ。それは同じオリジナルとして十分共感できる言葉だった。
「……だって、俺をずっと、ずっと、見守ってくれてる、奴だから、さ……」
ウィルは弱々しく微笑むと目を閉じた。
――カチリ。
ミーシャの手元から小さな音がした。懐中時計を開いた音だった。時計の蓋の裏に貼り付けた鏡を見つめ、ミーシャは静かに呟いた。
「すみませんアイザック。もう少しだけ働いて貰えますか?」
次の瞬間、少年の目つきから可愛らしさが消えていた。
「……ツケはウィルに支払って貰う」
気怠そうな眼差しで少年はウィルを見下ろした。それはミーシャのエクストラ、アイザックだった。
「貴方、名前……アイザック、といったかしらね」
胸ポケットからおもむろに取り出した眼鏡をかける少年にアンネは話しかけた。少年は眼鏡越しにアンネをじろりと見下ろした。
「君はペクトラじゃないだろう。なのに、やけに俺達に慣れているな」
その冷徹な語調と威圧感漂う眼光は、少年のものとはとても思えなかった。おそらくこのアイザックという男性は、それなりに年を重ねたエクストラなのだろう。
「他のペクトラは多分見分けがつかないけど……貴方は似てるから」
微かに呻き声をあげているウィルへと視線を落とし、アンネは答えた。アイザックはその視線の意味に気付くと、眼鏡をくいと上げ眉をよせた。
「……心外だ。こんな奴に似てると言われるのは実に心外だ」
アイザックの無愛想な表情が苦々しげに歪んだ。しかしその表情は、単に嫌っているだけの相手に向けられたものではなかった。強いて表現するならばそれは、腐れ縁の悪友へ向ける、侮蔑と悲哀の入り混じった表情のようにみえた。
「俺が口を開けば突っかかってくる。俺が座っていればすぐ悪戯してくる。おまけに一緒に仕事をしたら、必ず面倒事を引き起こし、俺に尻拭いをさせやがる……本当にめんどくさいよ……リリィという奴は」
アイザックが苛立たしげに吐き捨てた台詞の最後にアンネは耳を疑った。
「……ん? 今の、リリィのこと!?」
どちらかといえば、今の表現の所業を一通りやりそうなのはウィルの方と思われた。リリィは寧ろ、ウィルの手綱を引いている側のイメージが強い。そのリリィが悪戯をするなんて、アンネにはちょっと想像がつかなかった。だがしかし、アイザックはきっぱりと言い放った。
「ああ、まごうことなく彼奴だよ。俺にしかやらないから皆気づいていないのだろうがな。何が楽しいんだか」
嘆息しながらアイザックは視線を操縦席へと歩み寄っていった。
「……全く、ミーチャの頼みでなければこんな奴、見殺しにしているよ」
ウィルを一瞥すると操縦席へ腰かけ、ヘッドホンを首にかけるとアイザックはアンネへ告げた。
「自動操縦をオフにする。これから揺れるから、しっかりどっかにつかまっとけ」
アイザックは更に、目的地と思われる病院へと連絡を入れた。
「……もしもし先生、先程依頼した急患の件なのですが……」
アイザックはミーシャの時に聞いていたウィルの状況を簡潔に伝えた。一方アンネはフィンへ通訳し、二人でウィルの身体を支えながら内部の手すりにつかまった。
操縦席のボタンをいくつも押し、ヘッドホンを装着すると、アイザックは操縦桿を握った。途端に、それまで静かに飛んでいたヘリは唸りをあげ揺れ始めた。といっても、それまでの飛行があまりに静かだったため相対的にそう感じただけで、スピードアップした通常のヘリ飛行に比べれば十分静かなものだった。
「まだまだかかるのかしら?」
忙しなく操縦席のボタンやレバーをいじっているアイザックの背後からアンネが声をかけた。
「すまん! もっと大声で言ってくれ! ヘッドホンもしてるし聞こえん!」
「……あと、どの位かかるのっ!?」
アンネは手すりを伝い歩きして歩み寄り、アイザックの耳元で言い直した。それでようやくアンネの声が聞こえたアイザックは、声を張り上げた。
「もう少しだ! あと数分ってとこか!」
アイザックがそう言って間もなく、操縦席の窓の向こうにビルの光が見えた。




