失った記憶
青年は夢を見ていた。
薄ぼんやりとした視界に広がる青空、何処かから聴こえる小鳥のさえずり、そして辺りに広がる爽やかな野草の香りには覚えがあった。
(何の記憶だろう?)
何かを思い出さねばならないという焦燥感は、確かにあった。だが、遥かに強い睡魔が青年の夢を支配していた。山霧の如く視界一帯が薄灰色に染まると同時に、背中から地中へ引きずり込まれていくような気色悪い感覚に、青年は怯んだ。
その時。
「……フィンってば。また兄様のお稽古さぼったのね」
頭上から少女の声が聞こえた。呆れながらも少し微笑んでいるような、とても懐かしい声だった。
(君は……俺を知ってるのか?)
少女の顔をよく見ようと見上げた時、青年の夢は終わった。
*
「よう。お目覚め?」
眼前には一人の子供がいた。子供はリンゴを片手に、頭上から顔を覗き込んでいた。
整った顔立ちは「少女」でもおかしくはなかったのだが、その声には聞き覚えがあった。眼前の少年は、自分を庇った人影と同一人物だろう。青年はそう思った。
それにしても、改めて顔を見て思うが、この少年、せいぜい十五歳といったところか。特別鍛えているような風貌でもないのに、さっきの男どもを叩きのめしたとは、やはり信じがたかった。
少年は膝を組み、リンゴを一口かじった。
「さっきの奴らは俺が追い払ったよ。で、あんたを知り合いの店で寝かしてもらってたわけ。ついでに飯も作ってもらったから」
青年はそこで初めて、自分が店先のベンチに横たわっていることに気がついた。少年が運び込んでくれたのだという事は直ぐに分かった。目覚めたばかりであまり頭は回っていなかった。けれども、自分が寝ている間にこの少年に世話になった事は青年にも理解できた。
「ありがとう」
青年は無表情で呟いた。少年は一瞬きょとんとしたが、感謝の言葉を向けられたことに気がつくと、気まずそうにそっぽを向いた。
「べ、別に。人助けなんて当然のことだろ」
店の主と思われる老夫婦も青年を温かく迎えてくれた。言葉はさっぱりわからなかったし、振舞われた食事は質素なものだったが、青年にとっては人生で最も素晴らしい御馳走だと思えた。言葉は通じなくても老夫婦の心遣いは十分伝わっていた。青年は久し振りに穏やかな気持ちになれた。
青年が食事を終えたのを見計らい、少年は切り出した。
『自己紹介がまだだったっけ。俺はウィル。知り合いのつてで色んな仕事をやってる。所謂便利屋ってやつかな。あんたは?』
気さくな物言いと同郷かと思わせる程の流暢な喋り。当惑しながらも、青年は答えた。
『……俺の名前は、フィニス•リーカー。フィンでいい』
『フィン、此処までどうやって来たんだ?? 飢死寸前だったみたいだけど』
ウィルは朗らかな笑顔を崩さず、粗方齧りつくしたリンゴの芯を弄りながら尋ねた。フィンは肩をすぼめ、目を伏せた。
『俺には記憶がない』
フィンが答えるまで、少しの間があった。ランプの光が影を落とす。
『一ヶ月程前だった。何処かの川辺で目が覚めた時、俺が覚えていたのは自分の名前だけだった』
『じゃあ、自分が何者なのか……』
『ああ、わからないんだ』
沈黙が二人を包んだ。二人から離れたテーブルでは、老夫婦が心配そうにこちらを見ていた。周囲の空気が冷たくなったようにフィンには感じられた。それは仕方のない事だ。そう自分自身に言い聞かせていた。そうしなければ、自分の気持ちが再び凍てつき壊れてしまいそうだった。フィンは無理やり笑顔を作った。
『助けてもらったのは感謝している。けど、俺は長居しない方がいいかもしれないな』
ウィルはフィンの瞳を射抜くように見つめ、それから静かに言った。
『……そうだな。自分の身元を保証出来ないよそ者は、この街ではトラブルの元だろう』
ウィルの返答は冷淡だった。分かってはいたが、胃のあたりがずしりと重くなる感覚があった。フィンは静かに俯いた。
『……日が暮れる前に、行くよ』
『まあ待てって』
フィンが立ち上がりかけたその時、ウィルはフィンの袖を引っ張った。
『老夫婦を面倒に巻き込むのは困るが、この街でトラブルが起きなければ、とりあえず問題ないんじゃないか?』
ウィルの言葉の意味を直ぐには理解できず、フィンは立ち上がったままぽかんとした。ウィルは頭を掻いて目を逸らし、照れ臭そうに言い直した。
『……あー、つまり、俺が付いてってやるってこと。あんたには通訳が必要そうだ。こうやって出会ったのも何かの縁だ、せめてあんたの身元がわかるまで付き合ってやる』
フィンは驚きと困惑の混じった表情を浮かべる。
『……いや、しかし、俺にはお金がない。通訳としてウィルを雇うことは……』
『そんなことは分かってる、問題ない』
ウィルは手を横に振ってフィンの言葉を遮った。
『俺は俺で便利屋の仕事がある。あんたには相棒としてそれを手伝ってほしいんだ。その代わり、俺の出来るあらゆる方法を駆使して、あんたに関わる事を調べよう。それが俺の条件だが、どうだ? フィン』
フィンは少し考えたが、迷う理由などなかった。すぐにウィルに向き直り、フィンは顔を上げた。
『こちらからもお願いするしかないな。よろしく頼む』
ウィルはにかっと笑い右手を差し出した。
『よろしくなっ』