彼の想い、少女の涙
「……そんな仏頂面してるけどさ、おまえ、オリーブの事を相当大事にしてるだろ?」
「ぶっ!!!?」
唐突なウィルの言葉にワーニャは飲みかけたお茶をカップ内へ盛大に噴き出した。カップ底ではね返った茶を顔面にもろに浴びたその姿に驚き、フィンは椅子からのけぞり落ちそうになった。
「んなわけないだろが!!」
ワーニャは顔を再び真っ赤にして怒鳴った。酷い取り乱しぶりだと内心ニヤついていたが、ウィルは極力その表情を堪えていたため二人に気づかれる事はなかった。ウィルは優しい目つきでワーニャを見つめた。
「だってお前、オリーブに酷いこと言ったり危害を加えたりする奴がいる時にしか出てきてないじゃん」
「そんなの、俺がむかついただけで……」
言いかけてワーニャはハッとした。此奴、俺が数回しかウィルの前に出てきていないことに気付いている。そして恐らく、リーナの前で極力出ないようにしていたことも。
「……最初から全て気付いてたのか」
「そんな訳ない」
ウィルは四個目を手に取り答えた。
「お前の存在を疑ったのは背後から睨まれた時だよ。といっても最初は違和感を感じる程度だったけどさ。そのあと暫くオリーブを観察してたけど、オリーブらしくない挙動を見せたのは今日あの騒動が起きた時だけだった」
手に取ったリンゴを両手で包み込み語るウィルの姿は、祈りを捧げる修道女のようだとワーニャは感じた。そしてそれは会話の内容が分からない筈のフィンも同様だった。
「漸く分かった。俺を睨んだのはオリーブの悪口に怒ってたからなんだな」
ウィルは両手を解くとリンゴをテーブルの上へ置きなおした。
「リーナの前で喋らないのは、リーナに自分の存在を知られてオリーブが居づらくならないようにって配慮から、だろう? ま、元々オリーブは口下手なんだろうけどな」
ワーニャは俯いたまま無言で頷いた。
「ほうらやっぱり。ワーニャは優しい奴だな」
にこやかな顔で茶化すように言うウィルにワーニャは今度は反論しなかった。
「ま、そこは心底安心したんだけどさ……」
ウィルはそこで突然顔を曇らせた。
「お前、なんでも力で解決しようとしてきただろう?」
図星だった。
ワーニャは少なからず短気なところがあった。オリーブを、肉体的、精神的に暴力をふるおうとする人間から守りたいという気持ちからワーニャが現出することは少なくなかった。俯いたままのワーニャから肯定の意思を読み取り、ウィルは冷静に言い放った。
「それが、オリーブを孤立させる原因になったんじゃないか?」
ワーニャは唇を噛みしめた。
……ならば、自分はどうすればよかったというのか。
知らず、ワーニャは昔を思い出していた。
*
昔のワーニャは、自分がオリーブのもう一つの人格だという自覚を持ってはいなかった。寧ろ自らを彼女の守護霊のような位置付けだと認識していた彼は、オリーブの成長を静かに見守ろうと心に決めていた。
しかしワーニャは、間もなく自身の存在に無力感を感じた。オリーブを取り巻く環境は必ずしもオリーブに好意的ではなかった。オリーブが普通にワーニャの事を話すことで、周囲の人間は――嘆かわしいことに実の両親すら――オリーブを『普通ではない』と認識してしまったのだ。
ワーニャと自分の存在を認めてもらえずショックを受けたオリーブは、周囲との接触を拒むようになった。オリーブが孤立を深めたことで周囲の反応はエスカレートした。オリーブはあらゆる場面で周囲から拒絶され続けた。
ワーニャは苦しかった。一人物陰でしくしく泣くオリーブを見る度に、何もできない自分への腹立たしさを感じていた。
そんなある日、ワーニャは些細なきっかけから、自分がオリーブの人格として振る舞えることを知った。無力感に苛まれていたワーニャは歓喜に震えた。ワーニャは思いつく限りの方法で「抵抗」を始めた。
ワーニャの積極的な「抵抗」によって、オリーブが物理的に危害を加えられることは少なくなった。しかしそれは周囲との埋まらない溝を決定づけることにもなったのだった。
*
「……これ以上、オリーブに辛い思いをさせるな」
ウィルの絞り出すような声でワーニャは現実へ引き戻された。
「お前が人を傷つけ続けたら、いつか刑務所や病院での生活を強いられる事になるかもしれない。そんな生活は八歳の女の子には辛すぎる」
「……そんな、」
そんなのわかってる、と、ワーニャは言うつもりだった。
が。
「そんなことない」
少女は俯いていた顔を上げた。その眼は涙に濡れていたが、顔には笑みが浮かんでた。
「私、ワーニャと一緒なら辛くないよ。お兄ちゃん」
「……オリーブ」
ウィルは目を瞠った。ウィルは普段リリィと交替するときは鏡を使っていた。それは交替をスムーズに行うためだが、鏡を使わない人格交替そのものはウィルでも可能だった。ただしそれには片方の人格を強制的にどかせる強い意思といくつかのコツを必要とした。つまり、そのちょっと難易度の高い事を、眼前の気弱で奥手な少女は練習もなしにさらっとやってのけたのだった。
「……だって、ワーニャだけが、私の味方だもの」
ウィルの驚嘆に気付かずオリーブは泣きじゃくり話を続けた。
「私がワーニャのことをいうと、ママもパパも友達も、みんな気味悪がったの。ママに叩かれたときだって、パパに殴られたときだって、友達に突き飛ばされたときだって、いつもワーニャが守ってくれたんだよ……」
オリーブが思いのほかワーニャを好意的に受け入れている事にウィルは内心安堵していた。今の関係を保っていけたのなら、二人は少なくともペクトラとしてはうまくやっていけるに違いないという確信がウィルにはあった。だがしかし、普通の人間に混じった生活をするうえでは、この二人は色々なものが致命的に足りなかった。ウィルは優しく語りかけた。
「……オリーブ、ワーニャがオリーブを守りたかったのは分かる。痛いほどわかるつもりだ。でもな、なんでも暴力で解決しようとするのはよくない。そうだろ?」
しかしオリーブは頭を全力で横に振り叫んだ。
「違う違う! 仕方がなかったの! ワーニャは悪くないよっ!」
〈……いいんだよ、オリーブ〉
頭の中で響いたワーニャの声にオリーブは冷静さを取り戻した。俯き気味に泣きじゃくりながらオリーブは言った。
「……全然よくないよ。お兄ちゃんは何もわかってない……」
〈いや、ウィルの言っている事は正しい。オリーブだって本当は分かってる、そうだろう?〉
「ワーニャ……うぁぁ……」
オリーブは、堰を切ったように大声を上げて泣き始めた。ワーニャの言葉は聞こえてはいなかったものの、ワーニャがオリーブを諭してくれたことをウィルは悟った。席を立つとゆっくりオリーブの側まで歩み寄り、ウィルはオリーブを抱きしめた。
無言で頭を撫でてやりながら、強く、優しく、抱きしめていた。
それでもオリーブの涙は止まらなかった。
フィンとオリーブの泣き声に駆けつけたリーナは、黙って二人を見守ることしかできなかった。