少しの覚悟 〜side Finis
クセニア宅の風呂場にて。
――ぶるぶるるっ。
「ちょっ、泡だらけになっちゃったじゃないか」
フィンは顔をしかめて、飛んだ泡を拭う。首から下を見れば身体の前面全てに泡が飛散し、フィン自身が洗われているのではと見紛う程だ。
炭まみれで帰ってきた犬のリリィを見つけ、フィンは慌ててリリィを風呂場へ連れて行った。シャンプーを泡だてて念入りに洗い、後は尻尾にとりかかるのみ。そんなタイミングで、リリィは突然身震いをしたのだ。薄黒い泡の塊が盛大に飛び散り、今の惨状に至る。
「洗い方が雑なせいね」
くすぐったそうに鼻をひくつかせ、リリィはぷいとそっぽを向く。
リリィは犬になっても高飛車な態度を崩さなかった。いや、犬になってから余計にひどくなったまである。だがそれは不思議と、フィンに安心感をもたらしていた。風呂場の壁の泡をざっと洗い流し、フィンはやれやれとため息をついた。
「この三日間、全くリリィに構えずにいたのは悪かったよ。でも俺だって、アンネに一日中しごかれて地獄だったんだぜ? そこは考慮してほしいんだがな」
地獄。アンネの短期集中語学講座は、それはもう凄まじかった。単語を一つ言えない度に、殺気に満ちた視線が目を焼き貫く。そんな錯覚に何度襲われたことか。
だがその甲斐があったのか、本当にフィンは三日で共用語を話せるようになってしまったのだ。これは本人の努力の結果と言っていいだろう。
「そんなの知らないわ」
リリィはむくれ顔を隠そうともしない。下手に機嫌をとろうとするよりも、話を変えた方がいいだろうか。フィンはシャワーの水温を手で確認し、慎重にリリィの身体の泡を流す。
「そうそう、リリィに言われた事を考えてみたんだけどさ、やっぱり俺、この家に居続けた方が良いと思うんだ」
リリィの眉間の皺が一層深くなった。どんなに愛くるしい犬でも、目つきが鋭くなっただけで威圧感が増す。話題選びを間違えたかもしれない。それでもフィンは、リリィの眼光から目をそらさなかった。
「本気なの?」
「本気だよ」
炭粉の混じった泡を洗い落としてやりながら、フィンは淡白に答えた。その一言にありったけの意志を詰め込んで。
「クセニアにナイフを振り上げられたの、忘れたわけじゃないでしょう。アンネに訳を話して、ここから移動した方が良いと私は思うけれど」
大人しくシャワーの湯を浴びながら、リリィは流し目でフィンを見る。
「あれはクセニアさんのやったことじゃない。他の人間が糸を引いてる」
「彼女の意思じゃなかったって言いたいのね。確かにあの後、こちらに何かしようとした事はないけれど、信じるだけの確証はある?」
押し殺した唸り声で、リリィは言った。犬の声が人語のように理解できる感覚はどうにも慣れない。フィンは湯の出具合を調整し直し、残った細かな泡を丁寧に流してやりながら言った。
「あの時のクセニアさんの目、正気じゃなかった。操られた目だよ。特殊な能力の人間が裏にいると思う」
そう、フィンは確信していた。クセニアの事件に、何らかの能力者が関わっていると。それがペクトラなのか、そこまでは断言できる材料はない。ただ、人を操ってフィンを消そうとした卑怯な敵がいる事だけは、間違いないのだ。知らず、シャワーヘッドを握る手が強くなる。
「……ふぅん」
リリィは素っ気なく尻尾の先を震わせた。泡は落としきってるので惨事にはならなかったものの、いくつかの水滴がフィンの頬まで飛んだ。それでも構わず、フィンはシャワーを止めて話を続ける。
「俺は麓の村へは降りていない。にも関わらずここをつきとめたってのは、今更何処かへ隠れても意味がないってメッセージだろう。それなら下手にここから動かない方が、結果的にクセニアさん達を守れるんじゃないかって、そう思うんだ」
この案は概ね最善の筈だった。フィン自身の安全が確保されていない事を除けば。だがそれも問題ないだろう。今は頼もしいボディーガード犬がいるのだから。
「ペクトラのせいかもしれない、とは考えないのね」
鼻先を前足でかきかきしながらリリィは言った。何気なく発せられたであろうその言葉には、後ろめたそうな感情が乗っていた。能力者に心当たりがあるのだろうか。いや、それならこんなにはっきりしない態度にはならない筈。きっとリリィは、今回の能力者とは無関係だ。だからフィンはとぼける事にした。
「ん? 俺が標的で、リリィは巻き込まれた側だろう? 寧ろ俺が申し訳ない位だよ。ごめんな」
その発言で、リリィの動きが止まった。振ろうとしていたらしい尻尾は宙で器用な形に留まり、鋭かった目つきは丸みを帯びていた。だがそれも一瞬のこと。猛烈な身震いによる水滴の疾風が、即座にフィンの全身を叩く。お陰でフィンは頭からびしょ濡れになってしまった。拭えていなかった泡が粗方落ちたのは、不幸中の幸いかもしれない。
「別にいいわ。でも、フィンのくせに生意気」
背中にふんわりタオルを被せて拭こうとすると、リリィは気持ちよさそうに鼻を鳴らした。何故だろうか、リリィは既に機嫌を直しているようだった。
「はは、そう言うなよ。凹むだろう?」
フィンは弱々しく笑った。その裏に相応の覚悟を決めて。
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