彼女の試み
「社長、二分経ちました。入ります……」
ミーチャはドアの隙間から恐る恐る顔を覗かせた。その視線が部屋の光景を捉え、彼の顔は見る間に色を失った。
「どうしたんですか一体!?」
ミーチャの声はすっかり裏返ってしまっていた。だが無理もない。机上に積み上がっていた筈の書類は無残に床に散乱し、そして部屋の中央には、ウィルを逆さ吊りに掲げ持つ社長の姿があったのだから。
ミーチャは呆然と立ち尽くした。しかしそれが返り討ちの結果と理解するのも早かったようで、間もなく彼は一つため息を吐いて肩を落とした。彼の目は雄弁に訴えかけていた。「だからあれ程言ったのに」と。ウィルは詫びの意味を込めて片手を立ててみせた。
「問題ない。こいつに命の大切さを叩き込んでいたところだよ。あんたを乱闘に巻き込まずに済んで良かった」
テレサは肩越しにミーチャへと振り返り、そして微笑んだ。その柔和で朗らかな笑顔、そして雑だが皮肉っぽさのない口調は、ミーチャを更に驚かせた。
「その表情と話し方……もしかして、テレサさんですか!?」
「驚くほどの事じゃないだろ? 私はロバートのエクストラなんだから、いつでも交替して出てこられるじゃないか」
「はぁ、まぁ、それはそうですが……直接お話しした事は、片手で数えられる程しかなかったもので」
「そうだっけ? あ、いつもロバートと一緒に話を聞いてるから、普段会ってる気になってたのかもな。すまないね」
テレサは頭を掻いて笑った。そんな彼女を前に狼狽を隠せずにいるミーチャを、ウィルは内心にやにやしながら眺めていた。普段すかした顔のミーチャがテレサを前にしどろもどろするさまは、正直愉快でたまらなかった。そう、彼は完全に油断しきっていた。
「それはそうと、しんどいな、腕」
その言葉の意味に気付くより先に、ウィルの身体はぶんと真横へ振れた。そしてその身体が担ぎ上げられたと思う間もなく、彼は足首を掴まれたまま、仰向けでソファに投げ飛ばされた。
「どうわぁっ!」
――ばすんっ!
結果、ウィルは肩と背中でソファに着地し、小さく突き出た肘掛で後頭部を強か打つこととなった。ソファのお陰で身体への衝撃は強くなかったが、首が揺れた拍子に舌を噛んでしまい、ウィルは身悶えする羽目になった。
「……っぐぅぅ……」
うめき声ですらない奇声と共に起き上がろうとしたその矢先、大きな手のひらがウィルの頭を抱え込むように押さえつけ、彼の視界を遮った。
「こ、今度は何だ!?」
「起きる前に黙って話を聞きな、がきんちょ」
その声の主はテレサだった。声の方向から察するに、彼女はソファの横の床に座り込み、左手でウィルの顔面を覆っている筈だった。
「あんたがリリィと合流する一番手っ取り早い方法、それは今直ぐ死ぬ事だ」
話は冒頭から不穏全開で始まり、ウィルは早速身構えた。だが先刻の逆さ吊りと背負い投げの事を考えると、今正面から抵抗するのは無意味のように思えた。隙を見て逃げ出す腹づもりで、ウィルはひとまず話を聞く態度を見せておく事にした。
「オリジナルの死はそのままエクストラの死となる。私達が死ぬと魂はある場所へ集められ、そこで一旦眠りにつく。その時あんた達は再び一つに戻れる筈だ」
「テレサさん、僕らはそんなつもりで来たんじゃありませんよ!」
背もたれ側からミーチャの声が、それに続きソファが軋む鈍い音がした。彼が青ざめた顔で身を乗り出す様は、見えずとも容易に想像出来た。
「わかってるさ。だから最後まで話を聞きなって、ミーチャ」
穏やかだが軽く威圧的なその声に、ミーチャは言葉を飲み込んだ。彼女の声は積雪を割って伸び出る芽のように力強く、限界まで引ききった弦のようにぴんと張っていた。言葉を差し挟める空気は微塵もなく、ウィルもミーチャも神妙に次の言葉を待った。
「……ここであんたを死なせるつもりはない。それは保証してやるよ」
苦笑混じりのテレサの声に続き、ミーチャから安堵の溜息が聞こえた。顔面にかかる手のひらの力も緩んでいたが、ウィルは即座に起き上がろうとはしなかった。下手に足掻いたところで結果は目に見えているし、今はテレサの考えをしっかり聞いておいた方が良いように思えた。
「リリィは執念深くて歪みきった奴だ。ここであんたを死なせたら、次の世界でどんな仕返しをされるか分かったもんじゃない。それなら、この世界で恩を売っておいた方が余程ましというもの。だからあんたを生かしたまま、リリィを見つける方法を試すつもりだ。ここは素直に大人しくした方が賢明だよ」
リリィへの批判的な発言が列挙されてはいたが、テレサの声は何故か楽しげで、何かを懐かしんでいるようですらあった。そんなテレサの様子が気にかかり、ウィルはとうとう口を挟む事にした。
「一体何者なんだ、あんたら。前の世界ってやつで、俺達とどう関わったんだ?」
「それはリリィが戻って来たら教えて貰うんだね。私からはノーコメントだ」
テレサの返答はにべもなかった。口調こそ全く違うものの、言葉のチョイスが時折ロバートと似通っているのは、彼女が彼のエクストラであるが故だろうか。そんな些末な疑問がウィルの頭を掠めた。
「ミーチャ、大扉の内鍵を閉めて頂戴。そしたら奥のドアから給湯室へ入って、三人分の紅茶を用意して持って来て。砂糖も忘れずに」
「は、はい!」
テレサの指示に元気よく答え、ミーチャはぱたぱたと足音を立ててドアへと走っていった。
*
ミーチャが茶器をトレーに載せて社長室へ戻って来たのは、給湯室に入ってから三十分程経過した後だった。紅茶を淹れる作業自体は問題なく行えたのだが、戸棚の中に散らばったスティックシュガーとコーヒーフレッシュがどうにも気になったミーチャは、蒸らしに差し障りがない程度に戸棚を掃除し、周囲の小物を整頓してからティーセットを社長室へ運んだのだった。
「砂糖とミルクは、いくつずつで?」
テレサの脇にあったミニテーブルにティーセット一式を置くと、その上から小さなガラスの器を取り上げてミーチャは尋ねた。その器には、十本程のスティックシュガーと三個のコーヒーフレッシュが丁寧に積み上げられていた。テレサは右手の指を三本立てた。
「私のは砂糖三本、ミルクなし。あんた達も勝手に入れていいよ。でもそのミルクは勧めないな。紅茶には合わない」
「あ、そうなんですか。すみません、てっきり紅茶に添えるものだと思っていました」
スティックを三本ひとまとめに開封して紅茶へ流し入れ、スプーンでかき混ぜながらミーチャは頭を下げた。
「いやいや、むしろありがとう。こんな可愛い器に盛ってあるって事は、戸棚を片付けてくれたんだろう? これでロバートからのお小言が一つ減った。助かったよ」
「いえ、そんな……」
頬を微かに赤らめ、ミーチャはテレサに紅茶を差し出した。熟した柿のように艶やかな橙の水面には、撹拌による波紋がまだ残っていた。テレサは上機嫌でそれを受け取り、紅茶本来のすっきりとしたくせのない香りに微かに混じるフルーティな香りを楽しんだ。そしていよいよ一口味わおうとしたその時、遠慮がちな声がかかった。
「……あの、俺も飲みたい……です。その紅茶」
ウィルは両手の指を腹の上で落ち着きなく動かしていた。部屋中に広がる紅茶の良い香りが気になって仕方ない一方、今はね起きてテレサに酷い目に遭わされるのも嫌という葛藤が、そこからは読み取れた。テレサとミーチャは互いの顔を見合わせ、小さく笑った。
「後でいくらでも飲ませてやるから、今は黙って寝てろ! 作業が滞る」
テレサは紅茶を一口含み、乱雑にカップをテーブルへ戻した。そしてウィルの寝ているソファの方へと向きを変え、立て膝から胡座に座り直した。
「これから下準備にとりかかる。少し時間がかかると思うから、その時間を使って私の能力の話をしてあげよう。旧友の誼みでね」
そう言ってテレサは目を閉じた。




