冷たい笑顔と懐かしい空気
「はは、驚いてるね。死角から蹴り込んだ筈なのにって顔だ」
憎たらしいほど余裕に満ちた笑みで見下ろすロバートを、ウィルは恨めしげに見上げる事しか出来なかった。渾身の蹴りを綺麗に捌かれ、逆さ吊りにされている現状は、自らの軽率な行動を後悔するのに十分だった。
それでも一矢報いんと右足をしならせたが、結局ウィルは自慢の蹴りを出さなかった。ロバートの向こう脛が首の真横でスタンバイしていたからだ。彼が本気で蹴り下ろせば頚椎直撃、下手すれば下半身不随。売るだけ損な喧嘩になるのは、目に見えていた。
「良い判断だ。少しは頭が冷えたかな?」
ウィルの右足が力を失ったとみるや、ロバートは足の構えを解き、机の縁に腰をもたせかけた。ウィルの足を掲げ持ったままで。
「ずっとこうしてるつもり?」
「動きを封じておかないと、また僕に蹴りかかって来るだろう?」
「もう降参。力の差は歴然だ。だから下ろしてくれないか?」
ウィルは白旗を振るように両手を力なく振ってみせた。対してロバートは目元をにこにこさせたまま口を軽く尖らせ、ううむと唸った。彼の思案は五秒で終わった。
「君の行動は油断出来ないから、やはりこのまま話をする事にしよう。ね?」
朗らかに宣言されたしょっぱい対応に、ウィルは肩を落とした。話の流れを握るどころか、完全にどつぼにはまっている。それが無性に腹立たしい一方で、どうにも腑に落ちない事がウィルにはあった。
「頭に血がのぼっていたけど、さっきの蹴りは完璧に死角をついた筈。それを振り返る事なく正確に捌けたのは何故だ? あんたの能力は予知なのか?」
ウィルの質問に、ロバートは一瞬狼狽の目をみせた。だがそれに気づいた時には、彼はすでに笑顔に戻っていた。
「未来予知かあ、もし出来たら便利だよね。でもハズレ。ま、それは後で話そう」
呑気な声でそう言い、ロバートはウィルの顔を覗き込んだ。彼の笑顔を間近にして、ウィルは漸く気がついた。彼の笑顔には温もりが全く感じ取れなかった。遠目では温厚そうな印象にも関わらず、心を許せる雰囲気が全く見受けられない、その原因の一つはこれだったのか。そうウィルは納得した。
「それより、このまま君をサンドバッグにしようかとも考えたんだが、どう思う?」
「そんなイカれた発言を堂々と出来るあんたの脳みそに、もう色々とツッコみたいところだな」
ウィルは頭の後ろで両手を組み、冷めた目で切り返した。穏やかな見た目に似合わないバイオレンスな発言をさらっと言えるあたり、やはり一筋縄ではいかない相手である。そんな人間を前に臆せずいられるのは、あるいはリリィの理不尽な仕打ちに鍛えられたせいかもしれなかった。
「冗談だ。賭けに勝って気分が良いから、今日は止めておくよ」
ロバートは声を立てて笑った。その笑い声は妙に乾ききっていて、わざとらしいとすら感じられた。悪ノリが過ぎるにも程があるというものだ。ウィルは呆れ顔でロバートを睨んだ。
「賭け?」
「君を二分以内に怒らせる事が出来るか賭けていたんだ。テレサとね」
そう言ってロバートは机から降り、ネクタイを緩め目を瞑った。
「勝負あったよな。後は頼んだ」
彼の両目は数秒と経たずに開いた。だがその目つきは、先程までのロバートとは明らかに違っていた。
「ったくもう、あんたの所為で負けちゃったじゃないのさぁ!」
相手は生来の細い両目を目一杯見開き、軽く頬を膨らませてウィルの顔を覗き込んできた。それはのっぺりした中年男性の表情とは言いがたく、寧ろ妙齢の女性が見せるむくれ顏に近かった。姿はロバートだが、今話しているのはロバートではない。その結論に至るのは、何ら難しい事ではなかった。
「と言っても、あんたとロバートの性格を考えれば当然の結果か。分の悪い賭けはするもんじゃないね、つまんない事した」
ため息混じりのその声はロバートよりも僅かに高く、またその話し方は、粗雑ながらも女性らしさが垣間見えた。
「よっ、久しぶり。って覚えてないんだっけか。ロバートのエクストラ、テレサだ。この世界で会えて嬉しいよ、ウィル」
屈託のない笑顔で、テレサはウィルの手をとり握手を交わした。掴み所のないロバートの笑顔とは全く違う、人懐っこさと懐かしさを感じさせる表情だった。
「リリィがいなくて酷く堪えてるんじゃない? 経験した事はないが、想像はつくよ。辛かったろう」
テレサは憐れむように目を細めた。同情などいらないと思っていたウィルだったが、テレサの言葉は何故か素直に嬉しいと思えた。逆さ吊りでなければ「ありがとう」と言っていたところだ。かわりにウィルは無言のまま、ひきつった微笑だけで答えた。
「私もリリィと話が出来ないのは辛いよ。ロバートに対する愚痴を聞いてくれる友人は少ないからねぇ」
テレサは心底残念だと言いたげに首を振った。少なくともテレサは、ロバートよりも友好的で話が分かる人物のようにウィルには思えた。
「はあ、それはどうも……そんな事より、そろそろ下ろして貰えないかな?」
「いんや、肝心のお説教が済んでない!」
テレサは握っていた足をぐいと持ち上げ、驚いているウィルの鼻先に人差し指を突きつけた。
「あんたはどの世界でも喧嘩っ早くていけない。リリィがいない時だからこそ特に、相手の技量を正確に見極め、自分の身の丈にあった振る舞いをするべきだ。でないとあんた、リリィに再会する前に死んじゃうよ?」
テレサの口調はきつめではあったが、その言葉一つ一つには、ウィルの事を本気で心配する気持ちが表れていた。こそばゆくて、少しむかついて、でも結局嫌いじゃない、この感じ……。
(あぁ、リーナに似てるんだ、この人)
ウィルの脳内に、カウンターで皿を拭くリーナの姿が浮かんだ。オリーブの件では寂しい思いをさせてしまったけれど、きっと今日も忙しく働いているに違いない。また、あそこの飯を食いにいかなくては……。
「ちょっと、人の話を聞いてる?」
テレサの声でウィルは現実に引き戻された。思わずはにかんだ笑みを浮かべてしまい、ウィルは慌てて目をそらそうとした。だがテレサはきょとんとした顔で見つめるだけだった。彼女が特に気に留めていない事に気づき、ウィルはつくり笑いを浮かべて誤魔化す事にした。
「もちろん聞いてるよ。でもさ、拷問か説教、するならどっちかに決めて欲しいんだ。それとも、説教してから首の骨折るつもりなの?」
不敵な笑みのウィルと、目を丸く見開いたテレサ。
ぴんと張り詰めた空気が、二人を包み。
「あっはっは!」
テレサは突然笑い始めた。
「リリィがいないのに、この体勢でそんな口を叩けるか! どうやら心配はいらなかったようだ」
テレサは片手で腹を抱えて笑い続けた。その姿は、逆さ吊りで見つめるウィルにとって殊更に珍妙に映った。
「今のあんたをボコボコにしてもメリットがないからね、今回は見逃してやるよ」
笑いがおさまり、涙を拭いながらテレサは言った。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、それが全く安心出来ない返答だった事をウィルは悟った。
(何なんだろう、二人とも、いずれ俺をボコる気満々な口ぶりなのは……)
ウィルが困惑して頭を掻いていると、ドアの開く音が部屋に鈍く響いた。




