二分間
「いいですかウィル、くれぐれも粗相のないようにして下さいね。僕がうまく君達の事情を説明してかけあってみますから、社長が用件を話し終えるまで、決して失礼のないよう振舞ってください」
社長室へ続く一本道の廊下を歩いている間、ミーチャは不安げに同じ言葉を繰り返した。ウィルの喧嘩っ早い性格を考慮すれば、社長という奴と穏便に話を出来るかどうか疑わしいと言いたいのだろう。それはウィル自身もわかっていた。だが繰り返し聞かされてはいい加減怒りたくもなるというものだ。ウィルは廊下の突き当たりの大扉の前で、ミーチャの胸に人差し指を突きつけた。
「んな事はいい。社長とやらの協力が得られなくたって、リリィの居場所は自力で調べてやるさ。それよりここの用事をさっさと済ませて、早くインパイに向かうぞ」
乱暴にそう言いはしたが、ウィルは軽く咳払いすると、扉を静かに二度ノックした。
「入りたまえ」
低くよく通った声がかかり、ミーチャはウィルに目配せして扉を静かに押し開けた。部屋の中には立派なエボニーの机が一台置かれ、その側には真っ黒なスーツに身を包んだ長身の中年男性が、柔和な笑みで立っていた。部屋の内装は壁、床、家具類に至るまで黒系と茶系で統一されており、部屋に大きな窓がない事もあって全体的に重厚感を漂わせていた。
「到着にはもう少しかかると思っていたよ。流石ミーチャの改造ジープだ」
「お待たせしました社長、こちらが……」
「初めまして、って挨拶はいるか?」
「ちょっと、ウィル!」
無粋に話し始めたウィルをミーチャは慌てて止めようとした。だがそれより先に、社長は手のひらを前にかざした。社長が押しとどめたのはミーチャの方だった。
「そうだね、君は我々の事を覚えていない筈だから、『初めまして』になるのかな」
何処となく寂寥感の滲んだ笑みを浮かべ、そして社長は背筋を正してウィルへと向き直った。
「初めましてウィル君。私の名はロバート・ワトソン。ここの社長であり、言わずもがな、君達と同じペクトラだ。どうぞよろしく」
ロバートの差し出した長い右腕をしげしげと見つめ、ウィルは仏頂面で軽く手を握り返した。彼は満面の笑みで握手された手を離し、ミーチャへと顔を向けた。
「もし良ければ、少し席を外してくれないか? ミーチャ」
「え、と、その……」
突然の社長の申し出に当惑したらしく、ミーチャは目を酷くぱちつかせて社長とウィルの顔を見比べた。その姿は少しばかり滑稽で、ウィルは緊張した顔を歪めて笑みをこぼした。
「大丈夫だよ。そうだな、そこのドアの外で待っててくれ。二分たったら、ノックなしで入ってくれて構わないから」
「は、はあ……」
上目遣いで心配そうに見つめるミーチャにウィルは無言で頷いてみせた。二分程度ならば問題を起こさぬよう我慢出来る。そういう意味を込めた頷きはミーチャに一応伝わっていたようで、ミーチャはきゅっと口を結ぶと一つ頷き返した。そして一礼を残し部屋を出て行った。
「まぁ、席を外して貰った事に大した意味はない。どうぞ、そこのソファにかけてくれ」
「結構です。立ってる方が楽なもので」
「そうか」
つっけんどんなウィルの返答にやや苦笑している様子ではあったが、ロバートは至って上機嫌な笑みを維持していた。彼は机の端を軽快にタップしながら話し始めた。
「君とリリィには、前の世界でとても世話になったんだよ。だから私はこの世界でもぜひ友好的な関係を築きたいんだ、君達とは」
「そりゃどうも」
ウィルは細目でロバートを見据え、仁王立ちで身構えた。ミーチャはこの男を「狸」と形容していたが、少なくとも外見は柳の枝のようにひょろりとしており、「狸」らしい部分はどこにもなかった。つまりそれは、余程腹の内を見せない食えない男という事だ。こういう場合、警戒を緩めないのももちろんだが、相手に話の流れをコントロールさせない事が肝要。そうウィルは考えていた。
「まどろっこしいのは苦手なんでずばり聞きますけど、話って何ですか? 手短にお願いしたいんですが」
ウィルは一息でまくしたてるように言い切った。それに一瞬目を丸くしたロバートは、少し考え込むように腕組みし、綺麗に整えられた口ひげをなで、そしてにっこりと微笑んで言った。
「私がリリィの居場所を調べてあげよう」
「……は?」
一間おいて、ウィルの口から声が漏れた。何故わざわざそんな事をする? そもそも、リリィが俺の中にいない事を何故知っている? ミーチャが話した? いや、彼奴は社長の用件を聞いてからリリィの事を話すって言っていた筈だ。じゃあ何処から?
思考と不安が渦巻き始め、取り繕っていた平常心の塊は一気に瓦解した。頭の中で警告音が鳴り響く。目の前の人間は、間違いなく、得体のしれない危険な男だと。
「おや? 君が一番気になってた事だろう?」
ロバートは相変わらず上機嫌な笑みを崩してはいなかった。ばっと見た印象は快活な中年男性にしか見えないが、今の会話の後ではその笑みに不気味な何かが混じっているような気がして、ウィルは思わず目尻を吊り上げていた。
「何故それを?」
「それは教えられないな」
澄まし顔でそう言い、ロバートはくるりと背を向けた。皺一つない背広の背中は隙だらけで、危機感と苛立ちを募らせたウィルにとっては蹴りの標的にしか見えなかった。それでもミーチャが入ってくるまでは問題を起こすまい。そう心に決めた矢先だった。
「ま、君が私の所に素直に来るって事は、リリィに何かあって困ってるのかなぁと思うよね。旧知の身としては。リリィなしじゃ、君は無力な子供同然だし」
振り返る事なく、ロバートはそう言った。それはウィルにとって最も言われたくない言葉の一つだった。リリィの存在は唯一無二の相棒であると同時に、人間の努力だけでは到達しえない遥か高みを知る存在。そんなリリィに対して少なからず劣等感を自覚するのは、当然といえば当然。そんな心の奥底のコンプレックスをロバートという初対面の人間によって無遠慮に抉られ、ウィルが冷静でいられる筈もなかった。ふつふつと湧き上がる怒りに震え始めた腕と足を懸命に抑えながらも、ウィルの目は数歩先の机の端とロバートの左肩を交互に見比べていた。
「……彼奴の言った通りだ」
「何か私の事を言ってたかね? ミーチャは」
ロバートは壁の方を向いたまま首を傾げてみせた。煽っているのは一目瞭然。だがウィルの我慢も限界にきていた。相手の能力すら分からぬうちに攻撃を仕掛けてはいけないという、まっとうかつ冷静な判断は、見事に頭の中から吹っ飛んでしまっていた。
ウィルは音を立てぬよう右足を踏み出し、左足で床をだんと踏み跳び上がった。身体がロバートの頭の真後ろまで浮き上がったのを確かめると、ウィルは右足で机の上へ踏ん張ると同時に曲げた左膝を、振り向く気配すらないロバートの側頭部めがけて振り抜いた。
――筈だった。
手応えを確かめる前に、ウィルの身体を妙な浮遊感が襲った。視界は天地逆転し、背後へ引き摺り込もうとする力のベクトルが肩から全身にかかった。両手は頭の横を掠め、床を撫でた。何が起きたのか判断する間もなかった。
「やれやれ、今回の『ウィル』はあまり賢くないみたいだなぁ」
気がつくとウィルは、左足首を掴まれて逆さ吊りになっていた。




