契約と探し人
申し訳程度にしか温まっていない部屋の空気。そして、突き返された電卓の表示を凝視し棒立ち状態のジルベール。その二つに、ベアトリクスは少しばかりいらいらしていた。本当は可及的速やかに帰りたいのだが、ついでの仕事とはいえ、ここでこの契約をしていかねば大目玉を食うのである。ベアトリクスはかじかむ手で契約書一式を机の上へと投げ出した。
「で、取り引きして頂けます? そのお値段で」
軽く威圧を含んだクリアボイス。ジルベールははっと顔を上げた。
「あっはい! 勿論です。おい、誰か!」
手のひらの音が乾いて響く。続いてジルベール側のドアが軽い軋みと共に開いた。
「……はいはい、ただ今」
いかにもやる気ない中音域の声と共に現れたのは、先程玄関を開けたタキシード青年だった。だがその格好の変わり様……。
黒縁極厚眼鏡。
掻きむしった跡と思しき複数本のアホ毛。
タキシードの上からごろっごろに着込んだ綿入れ袢纏。
手には揉み尽くした使い捨てカイロ。
(……ダサい。すっっっさまじくダサいっ! さっきまでちゃんとした身なりだったのに! ちょっとだけ好みかもと思ったのに! 詐欺か!!)
率直な心の声が出かかったのを、奥歯の力で瞬殺。ベアトリクスは青年を二度見した後のやるせない視線を、渋々ジルベールへと戻した。その先にいたジルベールはというと、「呼ぶんじゃなかった」と言いたげに、顔を片手で覆い呻いていた。
「馬鹿野郎、お前って奴はなんで……いや、とりあえず今はいい。オッリ、従業員に実を収穫させて箱に詰めてくれ。三箱。すぐにだ」
青年に歩みよるジルベール。その口から溜め息混じりに吐き出された命令に、オッリと呼ばれた青年は唇を尖らせ肩を竦めた。
「今日はみんなに休みをやったじゃないか。だからここには、宿直の僕しかいないよ」
「う、オッリだけ……。俺が手伝っても時間がかかるな」
「……ルーイ、呼ぶ?」
「却下。彼奴を人前に出したら、まとまる商談もまとまらん」
二人はベアトリクス達に背を向け、小声で話を続けた。聞き耳を立てるまでもない。この場で三箱渡すのは難しいというのだろう。いつもなら他の者に後を任せてしまうところだが、今回は上司直々の命令なのでそうもいかない。責任の所在が自分にある以上、自分が待つよりほかに方法はない。どうせ待たねばならないのだから、つべこべ言わずちゃっちゃとやってほしい。そうベアトリクスが考えていた時、ジルベールはくるりと彼女へ向き直った。
「ではこうしましょう。箱づめが終わり次第、宿泊先にお届け致します。どちらのお宿をご利用ですか?」
言葉遣いこそ変わってはいないが、早口気味にまくし立てるジルベールの頬は少しだけ紅潮し、額には微かに汗が滲んでいた。焦っている――彼女はすぐに理解した。契約完了を目前にして、白紙撤回になりかねない事態。雪山に囲まれた貧しい街を潤すであろう数少ない収入源の一つが、今まさに潰れかけている。そう判断したのならば焦るだろう。つまりはそれだけ、今回の取引に全力で臨んでいるという事。
……その心意気、ただの人間にしては、悪くない。
急上昇しかけていたベアトリクスのストレス指数は、その程度の事で元に戻った。
「宿泊は断られてしまいましたので、やむなく街外れの土地を購入し、即席で一軒造りましたわ。一週間しかなかったので、山小屋に毛が生えた程度の造りにしかできなかったのですけれど」
しれっとそう答えてみせたが、ここで注目すべき事が一点。たった一週間で土地の買収から仮住居完成まで(一切の手抜きなしで)こぎつけたのは、潤沢な資金の存在もさることながら、イマヌエルの「万能執事スキル」のたまものなのである。ベアトリクスに対して地味に意地悪な事を除けば、これ程心強い味方はそういない。
「造った!? 一週間で!? それは……はぁ……流石の財力というべきか……」
当然困惑するジルベールをよそに、ベアトリクスは契約書を揃えて持ち直し席を立った。
「では、お言葉に甘えて運んで頂くとしましょうか。ね? イマヌエル」
「地図です、お嬢様」
「いつもの事ながら用意が良いわね、イマヌエルは」
淀みない返事と共に手元に差し出された地図を取り、ベアトリクスはそれを契約書と共にジルベールへと手渡した。
「ではジルベール様、こちらの紙へサインを。荷物はこの地図の場所に届けて頂けますかしら?」
紙束を受け取ったジルベールは、契約書へ素早く目を走らせた後、綺麗な筆記体で一息に署名。ベアトリクスの手に契約書が戻るまで、十秒とかからなかった。
「わかりました。今晩お届けします」
「ありがとうございます。では、おいとまさせて頂きますわ」
「オッリ、お二人を玄関までお送りしてくれ。手早く髪を整えて、袢纏は脱げよ」
「……了解」
こうして商談は無事終了した。
*
「はぁ、今日も疲れたわ。雪道は寒いし。ほっぺたは痛いし。お腹はぺこぺこ。ココアしか口にしてないんだもの」
程よく雪が踏み固められた帰路を軽い足取りで歩いている間も、ベアトリクスは思いつく限りの愚痴を零した。だが実のところ、グリズリー家を出た直後から、彼女のご機嫌はすっかり直っていた。イマヌエルの用意したほかほかの手袋とマフラーのおかげだ。
「早く温かい物が食べたいわ、イマヌエル」
「大したものは作れませんが……そうですね、夕食はビーフストロガノフにしましょうか?」
「素敵。じゃ、ささっと帰りましょ!」
無邪気に微笑み返すベアトリクス。だが、イマヌエルは難しい顔をしていた。彼にしては珍しい事だ。
「どしたの? イマヌエル」
ベアトリクスの問いかけに一瞬躊躇ったが、イマヌエルは一度目を閉じた後に静かな声で言った。
「お探しの方でしたか? ジルベール様は」
ベアトリクスは目を丸くした。本来の仕事の件について言っているのは分かっている。だがそれは、イマヌエルが気にする事ではない筈なのだ。ベアトリクスとしては、見つかればいいな、程度のノリで来ているのだから。
「……よく『視え』なかったわ。霧がかかったみたいな、すっきりしない感じ。当たりとも外れとも言い難い」
「『断片』なのかどうかも、『戦乙女』なのかどうかも、全く『視え』なかったのですか」
「ええ。さっぱり。ペクトラの能力はちょっと便利なだけで、万能じゃない。私の透視は特に不安定な能力だし。自分の目で直に見たものの精度は増すけれど、特に今は、ダメッダメなようね」
「……そうですか」
イマヌエルはそれ以上問いたださなかった。




