取引前の些事
ベアトリクスは耳まで真っ赤にし、イマヌエルから差し出されたティッシュで急いで鼻をかんだ。
「失礼しました。取り引き相手のお方の前でくしゃみをしてしまうなど、はしたない事を……」
まだぐずぐすする鼻にハンカチを当てながらそっと目を上げると、ジルベールは口元を手で隠し、肩を小刻みに震わせて笑いを嚙み殺していた。自分の姿がそんなにおかしかったのだろうかという疑問と、間が悪すぎた自分への恥ずかしさが、ベアトリクスの頬を更に赤く染めた。
「……いえ、こちらこそ失礼を。貴女の紅潮した頬があまりに可愛らしかったもので、つい」
こみあがる笑いを我慢出来るようになったのだろう、ジルベールは漸く隠していた手元を外し、顔を上げた。しかし彼の両目尻が緩くカーブを描いているのを、ベアトリクスは見逃してはいなかった。
(……もう、人間の分際でこの私を嘲笑するなんて、いけ好かない男ね!)
嫌味の一つも言ってやりたくなり、ベアトリクスは恥ずかしさに震える鼓動を鎮めつつ、つんとすました顔を上に向けた。
「もう少し暖かいお部屋でしたら、くしゃみなどせずに済みましたものを」
「申し訳ないです。この街では石炭が暖をとる手段になっています。この部屋も石炭のストーブで温めているのですが、石油ストーブの暖かさに慣れている方には、この室内もお辛いでしょう」
ジルベールは笑顔のまま、部屋の隅に横たわる銀色の大きな箱に目をやった。その上にはやかんらしきものが乗せられており、そのやかんはしゅうしゅうと小さく湯気を吹いていた。つまりその内部で石炭を燃やすのが、この家において暖をとる手段というわけだ。頭の片隅でそんな事を考え、ベアトリクスはなんとか気持ちを落ち着けた。
「別に、私達は化石燃料に頼った生活を送ってる訳ではありませんのよ?」
「ははぁ、オール電化、というやつでしょうか? 豊かな方々は暖の取り方も違いますね」
「豊かだから化石燃焼を使わないという訳でもありませんわ。私にとっては、この街も十分豊かな街に見えますわよ」
ベアトリクスの最後の言葉で、その場は急激に冷え込んでいった。笑顔を絶やしていなかったジルベールは一転、強い目力でベアトリクスを睨みつけ、一方のベアトリクスも、自分の言葉が冗談ではないという思いを込めて、ジルベールの眼を見据え返した。
(街への皮肉ととったのね……この街に特別な思い入れがあるようには見えなかったけれど……)
変に言い訳するのも気まずいだけだ。ここはスルーが得策とばかりに、ベアトリクスは社交辞令用の「可愛げのある笑み」で重い空気を払拭した。
「ま、それはともかく、本題に移りましょうか」
「……そうですね。では早速」
ジルベールの切り替えは思ったよりも早かったようで、怒りに満ちた目力はすっかり消えていた。彼は傍に置かれた包みから一つ取り出すと、ベアトリクスの前に置いた。
「これが例の『新種』?」
ベアトリクスは首をかしげ指でつまみ上げた。それは、拳大、黄緑色の丸い実だった。
「はい、改良の結果、より高い効能を期待できる種の大量生産に成功しました」
ジルベールは得意満面の笑みで頷いた。一方ベアトリクスはというと、胸ポケットからモノクルを取り出し、実の細部を観察しはじめた。そしてついと顔を上げ、丸く見開いた眼をジルベールへ向けた。
「植物に優しくないこの気候で、よくここまで育てられましたね。外気温は石炭を燃やせば何とかなるにしても、豊かな土壌と水を凍らせないシステムが整っていなければ、こうはならないでしょうね」
素直な感嘆しかない。ベアトリクスは本当に驚いていた。




