女と執事
仕事の都合上、惑星ギガの至る所を旅してきたベアトリクスにとって、インパイという街はそこそこ大きな規模の割に活気に乏しく、特に見るべきものもないという残念な印象しかなかった。そんな街で身を切る寒さに震えながら雪道を歩くという行為は、彼女にとって罰ゲームに等しかった。ベアトリクスはリンゴのように赤くなった頬をぶうと膨らませ、わざと肩をいからせて歩いていた。
(移動手段を用意して頂戴とは言ったけれど、流石にイマヌエルの引くそりに体育座りなんて恥ずかしい事、この私ができるわけないじゃないの。そこはせめて馬車にするところでしょう。馬も用意出来ない街なんて来るんじゃなかったわ)
目的地までの道すがら、その事で執事のイマヌエルを問い詰めたいと何度考えたか知れない。だがそれに意地悪な答えしか返ってこないという事も彼女は分かっていた。結局それには言及しなかったものの、ベアトリクスは目尻を精一杯吊り上げ、前方で歩道の積雪をせっせと脇へ寄せる執事を呼び止めた。
「いい? イマヌエル」
「何でしょう、お嬢様」
「私はまずいお茶を飲みたくないの。かと言って残すのも失礼でしょう? だからいつも通り、うまーくやってね?」
「承知しております、お嬢様」
実に老執事らしい落ち着いた佇まいと口調でそう答えると、イマヌエルはまた黙々と雪かきを始めた。ボストンバッグを脇に抱えたコート姿で、かれこれ三十分はこの作業を続けているというのに、彼は少しも疲れた様子を見せなかった。彼は折り畳み式のスコップで手際良く、淡々と進路の雪をかき続けた。
ベアトリクスがイマヌエルと出会って早十年。その間、彼女はイマヌエルの動揺した姿を見た事がなかった。ベアトリクスが無茶な難題を突きつけた時に見せる弱り顔も、そういうふりをしているだけだという事を彼女は知っていた。一度でいいから本当に彼を困らせてみたいものだと、ベアトリクスは常々そう思っていた。
「お嬢様、そろそろ着きますよ」
イマヌエルの声に、俯いていたベアトリクスはついと顔を上げた。目の前には、この街で見た中ではかなり大きな邸第――それでも、ベアトリクスにとっては中の上くらいのレベルだったのだが――が建っていた。家を取り囲む石造りの壁と、鉄製の門の隙間から覗く小さな庭は、雪を被っていてもきちんと手入れされた跡が見られた。
鉄門の前で屋敷を気の済むまで観察し終えると、ベアトリクスはイヤーマフと帽子を外し大きく伸びをした。
「あぁ、やっと寒さから解放されるのね」
「コートはお脱ぎになりますか?」
目の前にそっと差し出された執事の手を、ベアトリクスは外したばかりの手袋で軽くはたいた。
「この国ではそうした方が礼儀正しいかもしれないけれど、私は絶対脱がないわ。寒いのは嫌いだもの」
「承知しました。お脱ぎになる際はお言いつけ下さい」
そう言うとイマヌエルはさっとコートを脱ぎ、門の横の呼び鈴を鳴らした。間もなく使用人と思われる小柄な青年が現れて門を開け、二人は速やかに応接間へと通された。部屋では既に一人の青年が扉を開けて待ちかまえており、二人を見るや、額が膝につくかというほどに深々とお辞儀した。
「遠路はるばるお越し頂き、誠にありがとうございます。私はこのグリズリー家の主、ジルベール・グリズリーと申します。質素な家で大したおもてなしもできませんが、どうぞおかけ下さい」
青年は爽やかな笑顔を浮かべて椅子に手を添え、ベアトリクスへ席を勧めた。それ自体は全くもって普通の所作に見えたのだが、この時点でベアトリクスは、ジルベールの女たらしな性格を早くも見抜いていた。それでもベアトリクスは素知らぬ顔で、スカートの裾をつまみ丁寧に会釈を返した。
「初めましてジルベール様。私の事はベアトリクスとお呼び下さい。遠慮なく、席に座らせて頂きますわ」
ベアトリクスの勧められた椅子はビロードの手触りが気持ち良く、背もたれの感触も座り心地もなかなかのものだった。他に置かれた椅子やテーブルとは僅かに異なるデザインという事からして、恐らくは客の為にわざわざ用意したのだろう。そういう些細な気遣いは嫌いじゃない。ベアトリクスは全身に漲らせていた警戒心をほんの少しだけ緩める事にした。
「遠路は別に問題ではないのですけれど、骨の髄を刺すこの寒さは、流石に辛いものがありましたわ。ね? イマヌエル」
ベアトリクスが後ろに立つイマヌエルの方を振り返ると、いつの間に出したのだろう、彼の手の上には甘い香りを放つココアらしき飲み物を入れたカップが一つ、用意されていた。外で出された茶は飲まないポリシーを持つベアトリクスにとっては、待ちに待った「いつも通り」の展開だった。
「ココアでございます、お嬢様」
「ありがとう。ジルベール様、ココアはお嫌いですか?」
イマヌエルからココアを受け取り、向かいに座っているジルベールの方へ向き直ると、彼は案の定、「何処から用意したんだ」と言いたげに目を丸く見開いていた。
「……いえ、はちみつを湯で溶いて飲む事ならありますが、ココアという飲み物は、飲んだ経験がありません」
「はちみつよりもミルキーで濃厚な甘さですが、それならば多分気に入って頂けますわ。是非ジルベール様も召し上がって下さいな」
自分に出されたココアを、ベアトリクスはそのままジルベールの前に置いた。




