初めての言葉
「先生、そろそろ時間ですが」
扉越しにかかったクレムの声で、クセニアははっと思い出したようにベッド脇の置き時計へと目をやった。
「あぁそうか、今日は往診があるんだった。ありがとうクレム。道具を持って先に玄関へ行っててくれ」
「わかりました」
頼りない足音が遠ざかると、クセニアは髪を手で軽くかきあげ、少し困ったようにアンネを見つめた。
「今日行くのは三ヶ所だけだから、すぐ戻れるとは思うが……良かったら、フレディ君に留守番して貰って、お前は私達と一緒に来るか?」
そのクセニアらしい気遣いが、アンネには本当に有り難かった。犬を側に置いて留守番する事に比べれば、クセニアの荷物持ちなど苦にもならない。心の底からそう思っていた。だがそれに甘える訳にはいかなかった。一刻も早くフィンに言葉を覚えさせ、クセニアの手伝いを出来るようにしなければならない。街に広がる奇病の事で疲れ果てているであろうクセニアが、少しでも仕事をスムーズに終わらせて休めるように環境を整えたかった。そのために自分が今すべき事は明らかだ。アンネは強張った顔で無理矢理笑顔を作ってみせた。
「私の事なら大丈夫よ。犬がいようが、彼に少しでも早く共用語を覚えて貰わないと、クセニアの下僕に出来ないものね。ここからビシバシしごくわよ」
やせ我慢という言葉が顔に滲み出ていようが関係ない。クセニアの下で働ける人材を増やす事が、今は一番の手伝いになるんだ。そうアンネは自分に言い聞かせていた。それをクセニアの方も理解していたのだろう、優しく微笑んだのち、顔いっぱいの笑顔でウインクをとばした。
「花瓶を割るくらいなら目を瞑るが、くれぐれも、高額な医療器具は壊さないでくれよ? ただでさえうちは赤字なんだからね。注文も手間がかかるし」
「わかってるって。壊すのは花瓶だけに止めておくわ」
アンネの冗談に二人は互いの顔を見つめあい、声をあげて笑った。そんな中へ、フィンはカーテンの向こう側から顔を出し声をかけた。
「ク、クセニア……さん」
共用語をろくに話せない筈の彼がクセニアに直接話しかけるなんて何事だろうと、二人は笑顔を消し、フィンの顔をまじまじと見つめた。それが余程恥ずかしかったようで、フィンは一度カーテンに隠れるように身を潜めかけたが、赤くなった顔だけをカーテンから出し、決心したように口を開いた。
「……イ、イッテラッシャイ、クセニアさん」
彼が初めて発した辿々しい共用語は、イントネーションに違和感がありすぎて別の言語のように聞こえた。二人は本来の意味を理解するのに時間がかかり、結果、一瞬の気まずい沈黙がその場に出来てしまった。だがそれは発音に問題があるせいだけではなかった。
(う……ちょ、ちょっとだけ、だけど……可愛い気がする)
いつもは彼の頼りない態度に呆れるアンネですら、生まれたての動物の赤ん坊に匹敵する可愛らしさを認めざるを得なかった。そう感じさせる何かが、その時のフィンにはあった。クセニアはというと、ふくろうのように丸くなった目をアンネへむけ、ぶっと吹き出し、豪快に口を開けて笑い出した。
「お前がちゃんと共用語を教えてくれてるのは、よーく分かったよ。本当に可愛いなぁ、お前の男は」
「だから違うってば! もうっ‼︎ 早く用事済ませて帰って来てよ‼︎」
涙目で笑い続けるクセニアに、今度はアンネが顔を真っ赤にして抗議した。かけ布団をボスボスと両手で叩き声を荒げるアンネは更に愛らしく、クセニアはもう腹を抱えて大笑いするしかなかった。そんな二人のやりとりを、フィンはやはり恥ずかしそうに黙って見つめていた。
「あぁ、いってくるから、大人しく留守番しててくれ」
なんとか笑いをかみ殺してそう言うと、クセニアは笑いすぎて溢れた涙を拭いながら、部屋の外へと出ていった。後にはふてくされ顔のアンネと所在なさげなフィン、そして部屋の隅で黙って座る犬だけが残された。
『は、発音、そんなにおかしかったかな?』
頬を赤くしてむくれているアンネの様子を伺うように、フィンは肩を丸くすぼめ尋ねた。その何処となく元気のない姿がクセニアの爆笑を誤解してのものだと気づくと、アンネは苦笑いして言った。
『ああ、そう言う意味じゃないわ、さっきの笑いは。最初にしては上出来上出来。間違いに怯えなくて良いから、まずは積極的に話そうとする姿勢が大事なのよ』
アンネに少しだけ褒められた事が相当嬉しかったらしく、フィンは途端に顔をぱあっと明るくした。わかりやすい性格なのはありがたいが、軽々しく秘密を喋っていい相手ではないなぁと、アンネは内心ため息をついていた。




