犬、再び
アンネは殆ど寝られずに翌朝を迎えた。ステラと顔を見合わせながらメアリーのプランを聞いていたせいもあるが、眠れなかったのは寧ろジルベールの残した手紙のせいだった。
(寝る前に読むんじゃなかった。嫌な予感しかしなかったけど、まさかあんな事を言ってくるなんて……)
眠さにぼうっとする頭を冷気で無理矢理覚醒させようと、アンネはわざとマフラーを巻かずに家を出た。だがそれは間も無く激しい後悔に変わった。アンネが思っていたよりも街中にふく雪風は強く冷たく、コートの襟首を手で詰めていても容赦なく体温を奪った。診療所までの道のりが昨夜よりもひどく長く感じられ、アンネのテンションは下がる一方だった。ようやくクセニアの診療所が見えた時のアンネの喜びはひとしおだった。
「はぁ〜っ‼︎ やっっっと着いたぁ‼︎」
軒先で靴やコートにこびりついた雪を念入りに払い、アンネは診療所の扉を全開にした。
「おっはよぉークセニア‼︎ フィンの具合はどう……」
わざと元気よくそう叫んだアンネだったが。
真っ先にアンネの視界に飛び込んできたのは、フィンの足元で眠る白い犬の姿だった。
あの、凄まじい悪寒を催し、冷静さを完全に失わせる程アンネが嫌い怖がっている、白い犬だった。
その犬はアンネの声にちらと眼を向けた。その気怠そうな黒い眼を見つめてしまったアンネは、瞬時に顔を、いや、全身を強張らせた。
「あ、アンネ、落ち着いて、俺の話を……」
フィンが慌てて状況を説明しようとしたが、もう遅かった。
「ぎぃぃぃやぁぁぁ‼︎」
アンネは金切り声をあげ、直立に固まったまま床へと倒れ気絶した。
*
小一時間程でアンネは意識を取り戻した。目覚めたアンネの視界に入ってきたのは、クセニアの呆れ顔とフィンの青い顔、そして白い天井だった。
『だ、大丈夫かアンネ?』
「相変わらずだねぇ、まぁ無理もないか。覚えてるかい? ここに着いた直後のこと」
クセニアの言葉にアンネは一度首を傾げ、その後寝起きの眼を大きく見開いた。
「……犬っ‼︎」
反射的にベッドから飛び出しそうになったアンネの両肩を、クセニアはすかさず掴んだ。ベッドに押し付けられたアンネの身体は、鈍い音を立ててマットと敷き布団に沈んだ。
「待て待てっ‼︎ 落ち着け‼︎ 犬っころなら部屋の隅で大人しくしてるから‼︎」
「はぁっ……はぁっ……‼︎」
クセニアにしがみついた手を離そうともせず、アンネは血の気の引いた顔で肩を震わせていた。息遣いもすっかり乱れ、過呼吸を起こしかけていた。クセニアはアンネの背中を優しく撫ぜてやった。
「……ごめんなさいクセニア。もう……大丈夫……」
話ができる程度にアンネが落ち着いたのを見計らい、クセニアはぼさぼさの頭をかきむしりながら説明した。
「詳しい事情は私もよくわからないんだが、朝起きて彼の様子を見に来てみたら、部屋の中にいたんだよ、あの犬っころが」
クセニアは自分の背の方、すなわちベッド脇に引かれたカーテンの向こう側を親指で指し示した。その先に犬がいるのだと理解したアンネは、引きつった顔をそっと逆方向に向けた。
「追い出そうとしても彼の側から全く離れようとしないし、こちらから手出ししない分には大人しいものだから、面倒になって放っておいたんだ。すまない事をした」
「何言ってるのよ。クセニアは何も悪くないわ」
申し訳なさそうに頭を下げるクセニアに弱々しく微笑んでみせると、アンネは憔悴した真顔をフィンに向けた。
『どういう事よ? あの犬はフィ……フレディが連れてきたの? 私の犬嫌いはよく知ってるでしょう』
『すまない、訳があって、その……』
アンネの視線と声には少なからず非難がこもっていた。フィンは項垂れて落ち着きなく手をもじもじさせたが、意を決したように顔を上げた。
『……結論から言うとだな、あの犬はリリィらしいんだ』
『……は??』
アンネは耳を疑った。冗談ととるにはフィンの表情は真剣すぎた。だが事実ととるにしても、その言葉はあまりに突飛で信ぴょう性に欠けていた。
『ちょっと待って……リリィって、あの小生意気なリリィ? だって、犬じゃないの』
『おかしな事を言ってると言いたいんだろ? でも本当みたいなんだよ。俺も最初は信じられなかったんだけどさ……』
――クウゥゥン……
フィンの言葉に同調するように、カーテンの外から小さな鳴き声が聴こえた。それは唸り声と言うほど力強いものではなかったが、それでもアンネの過剰な恐怖心を煽るには十分だった。アンネは両耳を塞いで喚いた。
『う、唸らないでよっ‼︎』
犬は直ぐに鳴き止んだ。フィンは愕然として、アンネと訝しげな顔のクセニアを見つめた。
『やっぱり俺以外には通じないんだな……リリィの言葉は』
『冗談でも笑えないったら‼︎ もうっ‼︎』
『だから本当なんだって‼︎ うぅ、どうしたら信じて貰えるんだよぉ……』
取り乱すアンネを前に言葉が見つからず、フィンは唇を噛んだ。その時、先程よりもずっと小さい、囁くような鳴き声が聴こえた。
『……ん? 話があるってリリィが言ってる。ちょっと聞いてくるよ』
フィンはそう言って席を立った。




