必要な事
『……じゃあそういうわけだからここは頼むわ』
ウィルの早口で大雑把な説明では最低限の事情しか理解しきれなかったが、フィンは店の仕事をリーナと二人でやらねばならなくなった事に気付き慌てた。
『おいおい、ウィルがいないと俺、リーナさんと喋れないんだけど……』
『ジェスチャーで何とか意思疎通してくれ』
『何とかって、お前さぁ……』
泣き言など聴く耳持たぬと言いたげにウィルからじろりと睨まれ、フィンは一旦言葉を飲み込みため息をつくしかなかった。
『……頼むといわれても、俺には掃除と皿洗いしかできないけどな』
フィンは困惑しながらもフロア掃除の準備に取り掛かった。
*
オリーブを抱きかかえたままカウンターへ歩み寄るウィルをリーナはほっとした顔で出迎えた。
「ありがとうね。さあ、オリーブを中で休ませましょう」
オリーブを抱き取ろうとしたリーナは、そこでウィルの右手が血塗れな事に気付いた。
「ちょっとその手! 手当てしないと……」
カウンターにかけてあったきれいなタオルを巻こうとするリーナへ、ウィルはかぶりを振った。
「此奴と話してくるから、悪いけど店空けるわ」
ウィルのいつになく真剣な表情にリーナは不安そうに顔を曇らせた。
「……一体どうしたの?」
「うーん、大したことじゃないんだけど、さ」
どこまで説明すべきか――出来ればリーナを余計な事に巻きこみたくはなかった。だがオリーブの現時点での保護者として、リーナが口を挟みたくなるだろう事も予想できた。慎重に言葉を選んでウィルは言った。
「今、俺がしなきゃならない事、なんだよね」
更にウィルは、自分を睨むオリーブを悲しげな瞳で見つめて言葉を続けた。
「……で、多分、此奴にも必要な事なんだ」
リーナは二人を黙って見つめていたが、ウィルの強い決意のようなものを感じ取ったのか、諦めたようにため息をついた。
「話しづらいなら、詮索はしないけど……」
タオルの上から自分の右手をウィルの右手に乗せ、リーナは言った。
「二人とも、帰ってきなさい。」
ウィルは優しく微笑んだ。
「当然だよ」
*
ウィルはオリーブを抱えたまま、人目につかないよう道を選んで走り人気の少ない場所を思案した。
(確かこっちのほうへ行ったら湖の近くへ出るはず。そこなら多少暴れても騒ぎにはならないだろう……)
おぼろげな記憶を頼りに進むウィルの視界が突然眩しくなり、反射的にウィルは目を瞑った。
――ゆっくりと眼を開くと、眼前には青い二つの月に照らされた湖面が広がっていた。
(……記憶は間違ってなかったな)
ウィルは湖のほとりまで歩くとオリーブを解放した。オリーブは即座に飛びのき距離をとった。それはまるで外敵を警戒する子狐のような身軽さだった。
オリーブが直ぐには反撃してこないのを確認し、ウィルは血塗れになった右手を観察し始めた。掌にはほぼ中央を完全横断する形で、歪な傷ができあがっていた。しかし傷自体はそんなに深くはなかった。不自然な痺れや過剰な痛みもないところをみると、毒を塗った刃物ではなかったのだろうとウィルは判断した。
〈言っておくけど、私は手出ししないわよ〉
(分かってるよ。俺で十分だろ、彼奴の相手は)
念を押すリリィに苦笑いしてウィルは答えた。そしてオリーブへ背をむけてかがみこみ、湖の水で軽く右手を洗いながら呟いた。
「お前、オリーブじゃないだろ…」
ウィルを油断なく見つめるオリーブの目つきが一層険しくなった。少女と思えぬ低音と口調でオリーブは言葉を発した。
「……俺の存在をはっきり認識したのは、お前が初めてだよ」
右手が止血できていることを確認し、ウィルは立ち上がりタオルを手に巻きながらオリーブへ向き直った。
「……ちょっとオイタが過ぎたな。リーナに害がなければ、見逃してやろうかとも思っていたんだが」
束ねた髪を後ろへはねのけ、ウィルは半身の構えをとった。
「俺の名前はウィル。お前も折角だから名のれよ」
「……へぇ、俺と戦ってくれるのか!」
ウィルの戦闘の意思表示に、オリーブは目を見開き歓喜の声を上げた。姿勢を低く構え彼は名乗った。
「俺の名は、ワーニャだ」
「ワーニャ……それがお前の名か」
ウィルは顔色一つ変えなかった。そのあまりに冷静な反応に、ワーニャは内心面喰っていた。8歳の少女が突然男の口調で話し出したのだ。普通ならば多少なりとも驚く筈の場面だろう。
そんなワーニャの狼狽など知る由もなく、ウィルは右手を開閉させ指の伸縮に支障がない事を確認しながら話を続けた。
「さっきお前を抱きかかえた時気づいた……」
ウィルは一旦言葉を切り、右手を握りこむとぎりりと鈍い音を鳴らした。傷口からじわりと血が滲み、一雫となって地に落ちた。そのさまを見つめていたウィルだったが、突如上目づかいでワーニャを睨んだ。
「大量の武器……恐らく刃物類、隠し持ってるだろ」
「まあな。こんな貧弱な身体じゃ、武装でもしないと戦えない」
ワーニャはこともなげに肯定した。しかしワーニャの顔が一瞬だけ強張ったのをウィルは見逃さなかった。
「武装って……軍人の発想かよ」
「……元はそうだった」
半ば冗談めかして言うウィルにワーニャは伏し目がちに答えた。僅かの静寂が二人の間に流れた。
「……そうか」
やはり落ち着き払って答えるウィルにワーニャはさすがに動揺を隠せなかった。ここまで普通にワーニャと会話する人間などいるとは思ってもみなかったのだろう。
「……なぜ驚かない?」
「当然だ。お前の事情は、少なくともお前より把握している」
そんな事は些事だと言わんばかりに上から目線で話すウィルにワーニャはカチンときた。
「……丁度いい、さっきの男を殺れなくて、むしゃくしゃしてたんだよなぁ……」
少女の顔に浮かびえない凶暴な笑みで、スカートのひだから無数の投擲用武器を引き抜き構え、ワーニャは叫んだ。
「その事情とかいうやつ、お前を拷問して吐かせるとしようっ!」
好戦的な少女を目の前にウィルは涼しい顔を崩さず、閉眼気味に嘆息した。
「物騒な奴。たかだか酔っぱらいに蹴飛ばされたくらいで……」
だが次の瞬間、ゆっくり見開かれたウィルの瞳には憤怒の炎が浮かんでいた。
「拷問なんかしなくても話してやるよ。お仕置きが終わったらな!」