門前町
町の目抜き通りで毎月恒例の青空市が行われると言うので、出かけて行った。そこは駅前の通りであって、道路は区画整理の結果広く取ってあり、歩道も広く、一定の間隔をおいて山法師や花水木のような街路樹が植えられてあり、歩いていても気分がいい。
実際に行ってみると、もう時刻は午後二時を過ぎていたし、青空市も盛りを過ぎたようなので、道行く人の行列もさほどではなかったが、露店の閉店間際というのは最後の客が名残に物を買ってゆく事があるらしいので、まだ売子の声にも張りというものが感じられた。道路の両脇に設けられた露店を眺めながら歩いた。露店を抜けると南端に或る茶問屋がある。私はいつも食後に飲む煎茶を切らしていた事を思い出したので、そぞろ歩きの脚を休める目的もあって、その店に這入った。この夏の猛暑は秋にかけて凄まじいものがあったけれど、こうして歩いてみると、未だにちょっと歩いただけで額に汗が滲んでくる。私はバッグに入れていたハンケチで額を拭い、扇子を取り出して扇いでいると、店の人にお茶をすすめられた。富士宮は水の豊かな町である。それは地元の人間であるからよく理解しているが、すすめられたお茶をいただいていると、頭の中をみずみずしい風が吹き、何故だか気の遠くなるような気がした。
煎茶を少し買って外へ出てみると、おもての様子がさっきと違っていた。そう何分も店にいたわけではないのに外はもう暗くなっていて、東の空に明月と呼ばれるに相応しい涼しげな月が上っていた。目抜き通りの商店の軒ごとの灯り、街灯の灯りが優しく艶めいて美しかった。横町の角の辺りから風鈴のように虫の声がした。露店はすべて片づいていたが、路は狭くなっていて、どういうわけか街路樹も消え失せていた。私はどこか陶然としていたので、さして気にせずに歩いたが、よく考えるとそれは大変な事だった。信号のある交差点を西へ曲がり、神田通りと呼ばれる大通りを通ると、その思いは一層強くなった。歩道は更に狭くなり、頭上には撤去されて永い、古びたアーケードが復活していた。私の見ているのは幻覚だろうか。今はもうあるはずのないレコード店が二軒、通りに沿って存在していた。とうの昔に閉店したかつての大型スーパーが、現在は別の店になっている元の場所に店を構えていた。行き交う車を眺めると、どの車も四十年は前の旧型の車ばかりだった。
浅間大社の南側の大鳥居が見えてくる辺りで、私は更に信じがたいものを見た。富士宮を代表する建造物で、神田川沿いに在った木造瓦屋根の老舗旅館「橋本館」である。当館は数十年前に廃業して現在そこは道路になっている。その、在るはずのない旅館に明々と灯りが点っている。これはどういう事だろう。恐らく世界に何か大変な事が起こっているに違いない。そう強く思ったので、私はそこから変貌が始まったと思われる、元の道を戻る事にした。
交差点を来た方へ曲がると、そこはさっき通った駅前とは違って、例の古びたアーケードが復活していた。つまり三〇年以上前の町の風景がそこにあった。歩くほどに時間が逆行してゆくのだろうか。私は今、現にある時間の歪みのようなものをどう解釈すればいいのか判らなかった。更に行くと、駅前広場は昔の通り広々としていて、現在ある巨大な歩道橋は跡形もなかった。そして、正面には昔の富士宮駅と、はるか昔に撤去された、大鳥居が聳えていた。
ここまで来て私はある期待をしていた。駅の斜向かいの小ぢんまりとした店。一坪程の小さな店舗を構えていた、河嶋書店だ。当時店には文庫本と漫画しかなく、おやじが一人でやっていて、学校帰りの学生の溜り場になっていた。当時学生の私は漫画の単行本を立ち読みし、好きだった北杜夫の文庫本を買い漁った。
行ってみると、私が予期した通り河嶋書店はあった。狭い店で、もう外が暗くなっている所為か、学生はあまりいなかったが、そこには例のおやじがいた。
店の書棚には懐かしい本が並んでいた。私は文庫のコーナーの前で、本を物色しながら雑談している、二人の男子学生を見た。二人のうちの一人がひどく痩せているのが特徴として目に映った。詰襟にF高校のバッジを付けているが、その背中にはどこか懐かしいような印象があった。
「北杜夫、だったら『楡家の人びと』だろ」
「うん、でも」
「『幽霊』か。遠藤周作もいいぞ。『海と毒薬』とか」
「あ、安部公房」
「それ読んでお前理解出来るのか。安部公房。お前の頭脳では無理だぜ」
「じゃあ、これは」
「そんなの読むのか、それ、ただの童話だろ」
学生の手に取ったのは『船乗りクプクプの冒険』だった。私は高校生の頃の夏休みの読書感想文にその小説の事を書いて、担任の教師にお褒めの言葉を頂いた事がある。たとえ時の歪みがどうであれ、今の私には正直どうでもよかった。私は百円玉数枚で文庫を買い、店を出た。あの低能を馬鹿にされていた学生。三五年前の自分自身かも知れないと思ったが、振り返って確かめたらどうなるのか。私にはいささか怖い気がした。
「街」の幽霊というのをご存知ですか。昔存在していた「街」が突然目の前に現れる現象です。