罠
三人は、南の砦上空へ来ていた。
炎嘉の気が半分以下になろうとしている…おそらく、そろそろ維月は炎嘉から離れて出て来ようとするだろう。殺すほどには気を抜き去ったりはしない。きっと、そこのところは維月なのだろう。
しかし、炎嘉の気がどんどんと失われるのに、一向に出て来る気配がない。十六夜と維心は将維だけを残して、二人で炎嘉の部屋へ降りて行った。
炎嘉は、気の喪失と戦っていた。
維月に向かって気がどんどんと吸収されて行くのがわかったが、しかし止められない。気を失ったり眠ったりしたくないと炎嘉が必死に自分の意識を留めているので、実は維心達よりずっと気を喪失していた。
炎嘉が維月を抱いたまま寝台に力なく横たわると、維月が言った。
「炎嘉様…ありがとうございまする。たくさんの気を…」
炎嘉はフッと笑った。
「なんでもないことよ…しばし待てばまた回復するゆえの。このまま待っておれ。」
維月は微笑んだ。
「はい、炎嘉様。」
炎嘉はふーっと息を付いた。さすがにキツい。前世でもここまでしたことはなかった。それも、気を取られながらなのだ。通常よりも大きく身に疲れが圧し掛かって来る…しかし、維心がいつ迎えに来るとも限らない。こんな機会は絶対にない。炎嘉は、なので維月をまだ離すつもりはなかった。
そこへ、窓がいきなり開いたかと思うと、十六夜と維心が飛び込んで来た。炎嘉は目を開けた…もう来よったか。
「…何かわからぬが、探し物はもう返さねばならぬか?」
炎嘉が寝台から気だるげに半身を起こす。維月はこちらを見ると、眉を潜めて炎嘉の首に腕を巻きつけた。
「嫌よ。炎嘉様はいくらでも気をくれるとおっしゃる。今は回復をしているの。邪魔をしないで。」
炎嘉は驚いたような顔をしたが、維月を抱き寄せた。十六夜が言った。
「炎嘉、そいつは陰の月だ。維月でもあるが、混じってそんな感じになってるんだ。何のために力を集めてるのかもわからねぇ。それ以上気を渡したら駄目だ。」
炎嘉は自嘲気味に笑った。
「…困ったことに、そんなことはどうでもいいのよ。」と炎嘉は言って維月に視線を移した。「維月が我を欲しておるのよ。ならばこの命の限り応えようと思うのであるから、我は愚かよの。欲しいというならいくらでも何でも与えようぞ。のう、維月よ。」
維月は炎嘉に抱きしめられながら、にっこりと微笑んだ。
「はい、炎嘉様。」
炎嘉は維月に口付けた。維月がそれを受けて、炎嘉の背に腕を回す。維心が見ていられなくなり、炎嘉の腕を引いて維月と離した。
「やめよ!今維月は維月ではない!そのようなこと、維月がするはずがないではないか!」
維月がそれを見て、スッと襦袢を手に取って寝台から出た。そしてそれを羽織ると、腰ひもを結びながら言った。
「私を顧みないかたが、そのような!こうしてお望み通りの気と姿になりましたものを。それは月ゆえ。ただ愛されたいがため。なぜに私を顧みてくださらぬ!そして、気を分けてはくれぬのか!」
振り返った維月の、今は赤みがかった目からは、涙がこぼれ落ちた。維心は何を言っているのか分からず戸惑った。
「そのような…我は主を愛しておると、常…。」
「私は月でございまする!」維月は叫んで飛び上がった。「陽の月だけが月ではありませぬ!」
維月が飛び去って行くのを、維心も追おうと窓へ駆け寄った。十六夜が腕を掴む。
「待て。」
維心はその手を振り払おうとして、十六夜の視線の先を見て思いとどまった。将維…。
「手筈通りに将維に連れて行かせよう。」
維心は頷いて、見上げた。陰の月を捕らえねば…。
将維は、襦袢姿で飛び出して来た維月を見て覚悟を決めた。自分が連れ帰らなければ。
「維月。」将維は言って、落ち着いているふりをして手を差し伸べた。「こちらへ。我と行こうぞ。我が主に気をやるゆえ…。」
維月は将維の溢れる気を見た。でも、龍の宮は…。
「…宮は嫌。」
将維は頷いた。そして、今、思い付いたように言った。
「北の宮へ参ろう。そこなら誰も追って来ぬ。」
維月は少し考えて、頷くと、将維の手を取って共に飛び去って行った。
それを見た十六夜が言った。
「よし。北の宮の準備してある通りにオレは籠を作る。お前は待ってろ。」
十六夜は気配を消すと、すぐに後を追って飛んで行った。維心は取り残されて、身を起こして寝台の淵に座る炎嘉を見た。
「…借りはいつか返してもらうぞ、炎嘉。」
炎嘉はフンと横を向いた。
「我から乞うたのではないぞ?」と襦袢に手を通した。「陰の月か。さすがの我も死するかと思うたわ。しかしあの風情ではとても抗う事など出来ぬ。主、良くぞこの50年生きておったの。」
維心は憮然として言った。
「維月はあんな風ではないわ。あの気を持っておるのに、それを抑えようとしておって、それがまた我を惹きつけてやまなんだのだが…今は陰の月そのものになってしもうておる。十六夜が陽の月の力で捕えようとしておるが、将維がこれからあれを同じ場所へ留めねばならぬ。一日ほどな。」
炎嘉は腰ひもを結びながら目を丸くした。
「一日?!…我とさして歳が違わぬゆえ、回復も早いであろうが、それは大変だの。まあ主の若い頃と思うたら大丈夫なのかもしれぬ。主は若い頃に何もせんで、このように歳をいってからあんな妃を迎えよってからに。」
維心はますます眉を寄せた。
「年寄り扱いするでないわ。老いてはおらぬ。歳だけ過ごしただけではないか。体はこのように若いままよ。だが、やはり将維には回復は及ばぬゆえ、十六夜にこのように言われただけよ。」とため息を付いた。「遠くからでも、様子は見に行かねば。」
維心は飛び立とうとする。炎嘉はその背に言った。
「我も後で行くゆえ。維月が気になるの。将維が追い付かぬなら、我が代わっても良いしの。」
維心は炎嘉を振り返って怒鳴った。
「うるさい!来るでないわ!」
そして、すごいスピードで飛んで行った。炎嘉はため息を付いた。
「あれが夫であるのだから、維月の負担も大きかったであろうて。ま、このようなことも息抜きで良い。」
炎嘉は横になった。気の消耗が著しい。これを全回復させてから、参るとしよう。
北の宮へ着いて、奥の間に向かって歩いて行った将維と維月は、そこに敷いてある褥に倒れ込んだ。常はこのように褥が敷いたままになっていることはない。それを気取られるのではないかと思ったが、維月は何も言わずにそこで将維を求めた。
将維は気の補充が常に行われるような状態に身を調整し、正気を失わぬようにと思っていたが、無理だった。溢れるこの気は、普通の時の維月であっても将維にとっては抗うことが出来なかったほどの強い気であるのに、今は維月の方から乞うて来るのだ。とても正気では居られなかった。
そして将維は、ただひたすらにその行為に溺れるしかなかった。
一方十六夜は、あらかじめ編んでおいた力の網をゆっくりと上げて、北の宮を覆って行った。
将維の気が減り始めて、陰の月の力が増して行く。しかし、将維は常に気を補充するモードに切り替えているらしく、少し下がった所で一進一退していた。将維がもっているうちにこれを絞って行かなくては…。十六夜はひたすらゆっくりと、気取られぬように網を引き揚げた。維月の意識が月に戻ってはいけない。そこから見られると、気付かれてしまうからだ。将維の責任は重大だった。
夜になり、籠は北の宮の上で閉じられ、ゆっくりとその大きさを縮めていた。
最終的には、畳二畳分の大きさ程まで縮めるつもりでいた。側に寄って、話すためだ。あまりに大きいと、その中で逃げて潜んでしまう。そして大きいほど、隙が出やすかった。そこを破られたらどうしようもない。十六夜は引き続き意識を集中した。
…虫の音が聴こえなくなった。
維月はふと顔を上げた。誰か来たのだろうか。でも、何の気も感じなかった。
将維がハッと我に返った。維月の気がそれたからだ。
「維月」将維は努めて落ち着いたように言った。「なんだ?」
「…虫の音が聴こえなくなったの…。」
将維は、十六夜の籠が出来つつあるのを悟った。そして、わざと怒ったように声を荒げて言った。
「何を気にしておる!我がこうしておるのに」と、維月を抱く手に力を入れた。「そのようなもの、気にならぬようにしてくれるわ!」
気の補充は間に合っている。将維は一気に維月に向かって気を向けた。維月は驚いて身を震わせ、そして、また何も気にならなくなった。
十六夜には、その様子がわかった。将維の気が一気に減ったからだ。しかしさすがにこれだけ続くと将維もコツを掴んだようで、うまく調整して新たに気を補充し、元の気の量を保った。心なしか維月の方から、別の陰の月の気が少なくなっているようにも感じる…それが何を意味するのかも、今は十六夜にもわからなかった。維月に気付かれずに縮めて行くには、もう少し将維の力が要る。十六夜が焦る気持ちを抑えつつ、籠を小さく引き絞って行っていると、後ろから控えめな声が聞こえた。
「…十六夜?」
十六夜はハッとして振り返った。維心が、炎嘉と共にそこに浮いていた。
「…なんだ、集中してる時に。維月に気付かれたらマズいんだよ。将維がなんとか誤魔化してくれたが、一度は気付かれ掛けたようだ。まどろっこしいが、このままゆっくり縮めて行くしかないんでぇ。」
炎嘉が言った。
「将維は大丈夫なのか?もうかなり時も経っていよう。我が代わっても良いぞ。」
十六夜が呆れたように言った。
「あのな、外へ気を向けられたら駄目なんだよ。将維はうまくやってる。気は抜き取られてるのに、うまく補充して通常より少し下ぐらいを維持してるよ。どうもコツを掴んだようだな。」
維心が顔をしかめて視線を落とした。コツを掴むなどと。十六夜はその様子を見てため息を付いた。
「維心、気持ちは分かるが将維も必死で楽しむとかそんな余裕はないと思うぞ。オレはむしろ、これがトラウマになってこれから先、女なんか見るのも嫌にならねぇか心配だよ。」
炎嘉は真剣に眉を寄せた。
「確かにの。あの若さで、将維の経験のほどまで我は知らぬが、あれはかなりの重労働ぞ。我でも半日ほどであったのに。主は一晩か?」
維心は話を振られて横を向いた。
「もう良い。で、どれぐらいでこれは完成するのだ。」
十六夜は頷いた。
「夜明けぐらいか。思ったより早く小さく出来ているんでな。」
維心は踵を返した。
「では、その頃また来る。主の邪魔はしたくないし、ここに居ったら我の精神がもたぬわ。」
維心が飛んで行くのに、炎嘉は付いて飛んだ。
「待たぬか、我も一緒に行くゆえ。宮であろう?」
維心は答えない。二人が飛び去って行くのを、十六夜はため息を付いて見送って、また集中したのだった。