月の誘い
今日も龍の宮は滞りなく回っていた。
維心も機嫌良く、維月との仲も睦まじく、何の問題もない。
維月を望んでうるさかった神達も、立ち合いで維月に負かされてからは少し静かになっていた。どうやら宮にこもって訓練にせいを出しているらしい。
唯一志心だけは、たまに維月に立ち合いをと望み、龍の宮を訪れた。
それも立ち合ったら楽しく維心を交えて談笑し、穏やかに帰って行く。なので維心も気にする訳でなく、穏やかに過ごしていた。
瑞姫と炎託は、月の宮に落ち着いていた。
炎託はその能力を生かして、炎嘉がやっていたのと同じように、客員教授として月の宮の軍を指南する立場で居た。
そしてたまに龍の宮へやって来ては将維と過ごし、一か月ほど滞在しては帰って行く。まるで炎嘉のようなきままさは、まさに親子だと維心は笑っていた。
そんなある日のこと、月の宮から急使が来た。十六夜の具合がどうも悪いらしい。今までそんなことはなかったので、蒼は慌てて碧黎を呼び、維月も交えて話した方が良いと言われ、こちらへ訪問することになったのだった。その、訪問の知らせだったのだ。
「蒼、久しいの。」維心は蒼を出迎えた。「碧黎も、なかなか会う事はないの。」
碧黎は頷いた。
「我は余程の事がない限りここへ来ぬからの。主は呼びもせぬだろう。しかし、我は我が娘に用があるのよ。」と、維月を見た。「壮健か?」
維月は頷いた。
「はい。特に何もございませぬ。十六夜は…。」
碧黎は再び頷いた。
「どうも具合が悪くての。月の宮の結界も、今は蒼が張っておる始末。実体化もせぬ方が良いと思うて、無理に月に留めておるが…主、心当たりはないか。」
維月は首を振った。
「何も。この通り元気でありますので…。」
碧黎は、椅子に腰掛けた。皆もそれに倣って座る。
「…我が感じておるのは、陰の月が陽の月の方へ力を伸ばしておることぞ。元は陽の月の方が力が強いものを、今は逆転する勢いぞ。ただ陽の月側も抵抗するので、力は均衡を保っておるが、その抵抗の力を使うため、疲れるのだ。主の方にも何らかの影響があるかと見に参ったのだが、どうやら何ともないようであるな。では、月の本体の方が勝手に行っておるのか…。」
碧黎は考え込むように黙った。維心が気遣わしげに言う。
「維月の意思と違う動きをするなど…維月に影響はないのか。」
碧黎は首を振った。
「わからぬ。本来ならば十六夜と同時に何かあってもおかしくはないものを。維月は何でもないのだからの。何事かと我も思うておる…維月は月と深く繋がってはおらぬのかの。確かに、思えば主のその姿は人であった頃のもの。本来ならば十六夜のように我に似た青みがかった髪か、陽蘭に似て赤みがかった髪であるだろうに…。」
維月は考えた。確かに月とは言っても、自分はあまり月に戻らないし、力も滅多に使わない。陰の月の力は特殊で、あまり使いようがないからだ。どちらかと言えば、闇寄りの力だからだ。世間的には、月の力と言えば、十六夜の陽の月の力を指す。なので、あまりわからなかった。
「…十六夜が心配ですので、私も意識的に陰の月を抑えるようにしてみますわ。このところ、地上が忙しくてあまり月に意識を向けておりませんでしたから…。」
蒼が頷いた。
「母さんに掛かってるんだ。頼むよ。十六夜は母さんが心配するからと、知らせるなと言ってたんだけど。陰の月本人に知らせずに抑えるなんて無理だから。」
維月は頷いた。十六夜らしいが、でも、こればっかりは陰の月のせいなのに、私が知らないなんて訳には行かない。碧黎はそんな維月を見て立ち上がった。
「では、頼んだぞ。原因が分からぬ以上、しばらくは維月に抑えてもらうよりないの。何かあれば月の宮へ連絡を。我はしばらくは十六夜を見ておかねばならぬから、あちらに居る。」
維心が心配そうに頷いた。
「ああ、すぐに知らせよう。」
碧黎は頷くと、蒼を促して居間を出て行った。
夜になり、維月は空を見上げた。出ている月には、十六夜の気配がある。だが、こちらに意識を向けていないようだった。確かに、陰の月は陽の月を飲み込もうとしているかのようだった。
居間の照明を落とし、維心が近付いて来た。
「維月?そろそろ休まねばならぬぞ。」
維月は振り返って頷いた。
「はい…ですがその前に、少し陰の月と強く繋いで、あの陽の月に対する力を抑えてみなければなりませぬ。十六夜は、回りを気にすることも出来ないぐらい陰の月に抵抗する力を使っているようで…。」
維心も月を見上げた。確かに十六夜の意識は地上に向いてはいないようだ。
「では、やってみるか。我が付いているゆえ。」
維月は頷いて、じっと月を見上げた。陰の月…なかなか向き合って来なかったけれど、私の本体…。
何かの力が、どっと維月に流れ込んで来たのがわかった。
《ヤットコチラヲムイテクレタノネ》
維月には、そう聴こえた。
そして、流れ込んだ力と共に、維月はそこへふらふらと倒れた。それを見た維心が、慌てて維月を受け止めた。
「維月…?!しっかりいたせ!」
維心の目の前で、維月の髪は一気に赤みがかった金髪に変化した。維心が驚いて維月の顔を上げると、維月は首を振って目を上げた。
「大丈夫ですわ…急に陰の月の力を身に受けてしまったので、このように…」
維月の目は、赤みがかった茶色になっていた。維心は驚いた。これが本来生まれて来るはずだった陰の月の姿なのか。
まだ足元がふらふらとしている維月を、維心は慌てて抱き上げて奥の間の寝台に降ろした。維月は気だるそうにしている。
「…月の宮へ、碧黎に知らせなければ…!」
維心がそこを離れようとすると、維月がその腕を掴んだ。
「まあ維心様…急に力を受けたのでこうなっただけのこと。これは私の本来の姿でございます。余計な心配を掛けてはいけませぬゆえ。それよりは…」
維心は息を飲んだ。維月の気が、いつもより催淫の力を強くして湧き上って来る。それに、常と感じが違う…維月は、このように誘うような風情ではなかった。それに、髪の色が変わったのと同じように体つきも変わっている。このようにあちこち凹凸が激しくはなかったのに。
ためらう維心に、維月は胸元をゆるめて、誘うような眼差しで言った。
「さあ維心様…おいでくださいませ。それとも、このような私はお嫌いですか…?」
月の宮へ知らせなければ。
維心はそう思ったが、我を忘れて維月と共に寝台へ沈んだ。
「維心。」
次の日の朝、維心は自分を呼ぶ声に目を覚ました。体が気だるい…起き上がるのがおっくうだ。しかし、維心は目を開けた。
「維心、お前大丈夫か?」
十六夜だった。維心は体を起こした。
「何がだ?」維心は一気に気を補充しながら起き上がった。昨夜はかなりの気を消耗したらしい。「十六夜、主は大丈夫なのか?」
十六夜は頷いた。
「なぜか昨夜からピタッと陰の月の侵攻が止まってな。しかしお前、どれほど気を消耗したんでぇ。オレが見た時は半分ぐらいになってたぞ。」
維心は思い出そうとした。
「昨夜…維月が我に…」
話し始めて、維心はハッとした。維月が我に何度も求めて来た。そんなことは初めてだったが、自分はそれに応じるうちに、最後は眠ってしまったらしい…。
十六夜は察したようで、眉を寄せた。
「そりゃあご苦労様だったな。しかしお前、一晩中でも大丈夫だったはずだろ?なんでそんなに気を失った。それに、維月はどこだ?」
維心は言われて慌てて回りを見回した。そういえば。
「…昨夜は、維月が主のために陰の月の力を抑えようと月とつないだ。すると一気に髪が赤みがかった金髪になり、目は赤みがかった茶色になった。体つきまで変わってしもうて。本人が大事ないと言っていたが、我は月の宮へ知らせねばと思うたのに…維月に誘われて、我を忘れて、そこからはあまり覚えておらぬ。」
十六夜は驚いたような顔をした。
「なんだって、維月が金髪になった?」十六夜は考え込むような顔をした。「…だが、確かにオレは楽になった。だが、お前はここに来た時死にそうな顔をしていたぞ。維月はそんなに毎日大変なのか?オレはそんな目にあったこたぁねぇが。」
維心は大きく首を振った。
「あのようなことはない。今まで一度も。だが、昨夜は何度でも求められて、我はそれに応えずにはおられなかった。まるで常の真逆のようだった…我の方が意識を失ったのであろうの。」
十六夜は、なんだか嫌な予感がした。
「…維月はどこだ。探せ、維心。」
維心は宮の中も、自分の結界の中も気を探ってみるものの、どこにも維月の気配はない。
「…ない。なぜだ。維月はどこへ行った?」
十六夜は月の出ていない朝の空を見上げた。じっと考え込んでいる。
「…昨日、オレから力を取られてねぇのに、陰の月は力を増した。」十六夜は言った。「おそらく、お前の力だろう。お前、多分維月から気を吸収されたんだ。で、それがなくなったから、多分回復するまでは無理だと思って、別の…」
維心は立ち上がった。
「将維か!」
将維の対には将維の結界が張ってあり、維心には中を読めない。居るとしたら、その中だ!
十六夜が眉を寄せた。
「…また陰の月の力が増したぞ。」
維心は急いで将維の対へと走った。自分ですら全く抗えなかった維月の誘いに、将維が抗えるはずはない。十六夜もそれに付いて走った。