第1話 それは燃え上がる出会い
本作は空想科学祭2011用の長編作品となります。
月水金に更新、全15話構成の予定です。
ちなみにR-15扱いにしていますが、念のため程度のものです。
それでは、はじまりはじまり~
「もう、何で追いかけてくんのよー!」
息を弾ませ、少女が走る。追っ手を撒くためにと狭い街道を外れたことは明確な失敗だった。方向感覚すら失い、自分がどちらに向かって進んでいるのか、あるいは戻っているのかすら分からない。そもそも道が二手に分かれていたら三分の二くらいの確率で間違った道を選ぶような彼女である。唯一の道しるべとなる街道を外れるなど自殺行為以外の何ものでもない。
「うあっ、まだ追いかけてきてるしっ!」
首を横に振った拍子にチラリと確認した視界には、まだ二つのもふもふが残っている。一匹は諦めたようだが、状況が好転したとはお世辞にも言えない有様だ。
少しでも時間稼ぎになればと、街道を外れて林に突入した彼女だったが、足場が悪く障害物も多い環境では、ただでさえ大して速くもない彼女の俊足が発揮されるハズもなく、犬の遺伝子に眠る追跡者としての本能を呼び覚ます程度の効果しかなさそうだった。
「わわっ!」
前方の木陰から突然現れた一匹に驚き、慌てて急制動をかける。野犬に先回りされるとか、最早人間としてのプライドがズタズタである。
「へぶっ!」
更にトドメとばかりに、僅か三センチしか盛り上がっていない木の根に躓いて盛大なスライディングを披露した。追っていたのが人間だったなら大爆笑間違いなしの展開だが、幸か不幸か追っ手の三匹は犬である。お腹の空いた彼らの目に映るのは、食べ物が入っている(願望)背負い鞄のみだ。
「もう駄目、死ぬ!」
襲い掛かるであろう三つの牙を予感して、彼女はその場で亀のように丸くなる。目を閉じ、耳を塞ぎ、自らの不幸を呪った。
が、本来呪うべきは自らの不遇ではなく、判断の甘さであるべきだろう。そもそもこんな所をウロウロしているのは、渡されたタクシー代を駅弁に使い切って余儀なくされた徒歩を敢行したためである。野犬が多いですよと忠告までされているのだから、自業自得としか言いようがない。
痛いの嫌だなぁなどと手足を齧られる自分を想像している彼女の背後で、大きな袋を膨らませて叩き割ったかのような、ボンという破裂音が響き渡る。何かが爆発したかのような音だが、衝撃のようなものは何一つ感じ取ることが出来ない。
しかし不思議なことに、最早為す術もない無防備な彼女の尻に噛み付く気配が消えていた。それどころか、耳元にまで迫っていたかに思えた唸り声が、少しずつ遠ざかっているようにすら感じられる。
「何かあっ――」
呟きながら恐る恐る頭を持ち上げた彼女は、目蓋を開くなり絶句する。
視界は赤かった。最初は真紅の大きな薔薇が宙に浮いているのではと思ったがそうではなく、花びらに見えたものは炎の舌だった。彼女の頭上に突如として火球が現れ、飛び掛ろうとしている犬達を牽制していたのである。
それはどう見ても、魔法の発現に他ならなかった。
と、警戒しつつもまだ諦める様子のない犬達が気に入らないのか、薔薇の花を模した炎が更に大きく広がる。その花弁が幾つか離れ、犬達の足元を焼き始める。赤く――否、濃厚な紅い炎は下草を一瞬で呑み込み、その姿を漆黒へと変化させる。これだけ間近にあって熱さを感じさせない奇妙な炎ではあったが、焼くという現象は忠実に実行されていた。
それを見て、あるいは感じて、犬達の腰が引ける。やがて回り込んでいた一匹が耐え切れずに逃げ出したのを皮切りに、残る二匹も脱兎の如く逃げ出した。
唖然として、自分が助かったことすら自覚できていない彼女の視線は、目の前に浮いている炎に釘付けだった。それは、まるで自己主張するように一際大きく膨らんで弾けると、朝霧のように大気に溶けて消えていった。
「……目覚めちゃった」
呟きが漏れる。その声は震えていた。しかし輝きを放つその目を見れば明らかだが、そこに恐怖の色は微塵も存在していない。
「凄ーい。私凄いじゃん! ピンチに目覚める魔法少女、もう完全に王道じゃん、コレ!」
立ち上がり、土埃すら払うことなく小躍りを始める少女は、傍目に見るとかなり痛々しい。
「えーと、何かゴメン」
背後にある巨木の陰から、一人の少年が申し訳なさそうな顔をしながら現れる。むろん彼自身に何一つ落ち度などないのだが、痛々しい様を見てしまうというのは、何となく罪悪感というか、ちょっと申し訳ない気持ちになるものである。例えるならそう、甘酸っぱい日記をうっかり盗み見てしまった時のような感覚といえば分かりやすいだろうか。
「えっと、あれ? さっきのって……」
「うん、僕がやったんだけど」
「…………」
あ、泣きそう。
「あああ、えっと、大丈夫だよっ。君だってこのくらい、すぐに出来るようになるって」
安易な励ましと思わなくもなかったが、少女の表情はコロリと変わる。
「ホント?」
「うん、ホントホント」
とりあえず目の前で泣かれてたまるかとばかりに、少年は必死に頷きを返す。
「そっかぁ。ならいいや」
かなり単純な性格のようである。
「君、新しい候補生だろ? 僕は真白誠治、君よりちょっと先輩かな」
「私、藍河久里寿です。あの、助けてくれてありがとうございました」
「いやぁ、あんなの大したことじゃないし。でも最近、ますます野犬が多くなってきてるんだよね。タクシー捕まらなかったの?」
「あ、えぇ、まぁ」
駅弁のせいとは、さすがに言えないだろう。
「とりあえず案内するよ」
「はい、正直道にも迷ってて、どうしようかって思ってたんですよね」
幸先不安な少女である。
いずれにせよ、彼女には戻る場所など存在しない。ここへ来た以上、ここの住人になる以外の選択肢は残されていなかった。日本最大の特異点、かつてはUFOの町と呼ばれた石川県羽咋市は、今は唯一の魔道都市ハクイとしてその名を全国に知られている。
ここは別名『中二病の聖地』と呼ばれている。
二十年ほどで、この地の景観は別世界のように変わってしまった。それまでのここ、石川県羽咋市は能登半島の付け根に位置する地方都市でしかなく、さほど大きな産業や名物を有しないありふれた町に過ぎなかった。せいぜい、UFOの目撃情報が多い町という、いささか胡散臭い名物を売り物にしている痛々しい町として極一部の人達に知られる程度であった。
そんな町が十八年ほど前、正確には十八年と二ヶ月前に、突如として訪れた変化によって命運を大きく狂わされることになる。当時の羽咋市民にとって、それが歓迎すべきことであったのか、それとも落胆すべきことであったのかは微妙だが、その変化は彼らが売り物にしていたUFOの延長上に存在している『宇宙人』ではなかった。
満月の照らす秋空の下で、姿の見えない魔物と共に現れた少女は自らを『魔法使い』と名乗った。彼女は周囲の協力を得て魔物を次々に屠り、その後この地、羽咋市に拠点を設けた。研究所であり要塞でもある魔道都市に閉じこもり、次なる魔物の出現に備えていたのだが、子を生して数年の後、謎の病に倒れて生涯を閉じている。
むろん、これらはあくまで表向きの公式記録を繋げた経緯でしかなく、真実とは異なっている。彼女自身の生い立ちも含め、数多くの出来事が非公開、あるいは不明となっており、極一部の研究者や権力者を除いて、近付くことすら難しいブラックボックスの塊でもあった。ただ一般的には、魔法と呼ばれる何かしらの術を行使する人間が現れたこと、その人物が研究所と呼ばれる施設に軟禁されたこと、そこで一人の子供を生んだこと、外傷のない謎の死を迎えたこと、これら四点は明確な事実として認識されている。
「近くで見ると高いねぇ」
口を大きく開けて上を見やる少女を、どこか微笑ましい眼差しで先導する少年が見詰めている。天に届くと評される魔道都市の外壁は、さながら分厚いコンクリートの爪を地面に並べて突き立てたかのように映る。内側に張り出した外壁はそのまま天井の一部を形成し、巨大なドームを形作っている。その中央、唯一の空洞を貫くようにして巨木――通称『世界樹』が緑色の屋根を伸ばしていた。
魔道都市などと呼ばれてはいるが、都市機能と呼べるものは何一つない。通いの従業員を含めても、百名程度が共有している程度の空間だ。実際羽咋市自体は現在も健在であり、その郊外に作られた特別施設というのが実情である。
とはいえ、羽咋と言えば最早UFOではなく魔道都市としての知名度が圧倒的であり、当の羽咋市民ですら疑う者は皆無であろう。魔法という超常現象は、決して身近でこそないものの、存在するものとしての地位を確立させつつあった。
唯一の魔女と呼ばれた真白天音がこの世を去って十二年、次を担う世代がようやく育ちつつある。かつて魔女を研究対象にしていた魔道都市は今、新しい魔法使いを育成する施設へとその姿を変えていた。
「うわっ、世界樹大きい!」
三重のセキュリティに守られたゲートをくぐり、二人は魔道都市へと足を踏み入れた。都市と名がついているものの、実際にあるのは研究棟と教育棟、それに従業員用の寮があるだけである。購買や食堂、それに自動販売機の類もあるが、それらをもって都市機能と呼ぶのはいささか抵抗があるだろう。もっとも、ドームの中央に居座る研究棟で施設の八割弱が占められているのだから、他の施設など全てがオマケのようなものだが。
「まぁ観光客が来るくらいだからね。やっぱり目立つよ」
施設内への立ち入りが許可されることはないものの、観光バスからの世界樹見学ツアーは羽咋市のメインコンテンツでもある。鬱蒼とした森に囲まれた異様な人工建造物の中央にそそり立つ巨木は、それだけで自然と不自然の融合を主張しているようにも見える。
「写真でしか見たことなかったけど、本物は迫力が違うなぁ」
「根元から見上げると、また違って見えるよ」
楽しそうな久里寿の笑顔につられてか、誠治の態度もどことなく浮かれて見える。この研究所以外の世界をほとんど知らない彼にとって、外から入ってくる新しい仲間というのはいつだって未知なる存在だ。いつもなら、表面上の笑顔を浮かべてはいても、自然に距離を開けていることが多かった。多くの人間に触れたことのない彼は、基本的に人見知りなのだ。
それなのにと、彼は自らの態度を不思議に思う。これは初対面というより、懐かしい再会を果たしたかのような心持だった。
「……あのさ」
「なんですか?」
頭の左側にある大きな藍色のリボンを揺らして、久里寿が振り返る。その笑顔は、やはりどこか初めて見たという感慨に乏しかった。
「ひょっとして、以前にもここへ来たことある?」
「え、ないですよ。初めてですけど」
「あ、そうなんだ。そっか……」
勘違いだと理解しつつも、誠治は何故か納得し切れない。しかし明確な出会いの記憶など皆無だし、仮にどこか出会っていたとしたところで、互いに忘れているのでは大して意味を持たないだろう。彼は気を取り直し、とりあえず気掛かりを頭の後ろ側へと追いやることにした。
「ところであの、着いたら所長さんの所へ行けって言われてたんですけど、どこに居るかわかります?」
「分かるも何も、所長室に向かってるところだけど?」
「あ、そうだったんですか。えへへ」
とりあえず後ろについてきましたと言わんばかりの曖昧な表情である。もっとも、枝分かれしていない一本道で迷子になるような彼女を放置するほど、彼も人でなしではない。用事と言えるものが皆無というワケでもなかったが、優先させる必要のあるスケジュールは存在していなかった。この魔道都市は、人の出入りに関してはそれなりに厳重でありうるさくもあるが、中で過ごす分には穏やかなものである。
「あ、シロだ。おーい!」
外壁と大樹に阻まれるため常に日陰となる敷地内から純白の照明に照らされた研究所内へと足を踏み入れた瞬間、エントランスホールの片隅から声がかかる。
「あれ? だ、誰か知らない人と一緒だよ?」
全身赤一色の長身男性の隣に居た小太りの男が、やけにおどおどとした態度で二人の様子を窺ってくる。一方の長身は全く意に介していないのか、ドタバタと大きなアクション付きで二人に迫ってきた。
「探したぜ、シロ。さぁメシ行こうぜ」
「いやアカさん、ひょっとしてこの子に気付いてないの?」
「分かってるって。拾ったんだろ。そっちの新しい彼女も一緒にメシ食おうぜっ」
どうやら話の通じる相手ではなさそうである。
「捨て猫じゃないんだから。とりあえず僕抜きで行って下さいよ。僕はこの子を所長の所まで案内してくるんで。そもそも僕以前にミドリとモモも居ないじゃないですか」
「ミドリは先に食堂に行ったよ。モモはえっと……キーちゃん知ってる?」
首が捻じ切れるかのような勢いで振り返り、柱の陰でおどおどしている小太りの男に視線を向ける。
「所長に用事があるとか、い、言ってたけど」
「というワケだ。さぁメシ行こうぜ」
「話聞いてくださいよ」
誠治の溜め息が重くなる。
「メシ食わないのか?」
「食べますけど、後にします。二人で先に行って下さい。ミドリが一人で淋しがってますよ、きっと」
「おおうっ、まさにその通り! よしキーちゃん、食堂にゴーだ」
「あ、ちょっ、まま待ってよっアカさん!」
赤ずくめの男を追うようにして、小太りの男もエントランスから文字通り転がり出て行く。残された二人は、その背中を目で追いながら中途半端な笑みを浮かべるしかなかった。
「……何というか、賑やかな人達ですね」
「まぁ変わり者って感じかな。魔法使いって、良くも悪くもそうらしいよ」
「じゃあ、あの人達も魔法使いなんですか?」
「うん、今この日本で魔法を使える五人の内の二人だよ。普段の姿を見ていると、そんな凄い人ってイメージじゃないけどね」
「へぇ」
普通、こんな環境に放り込まれれば不安が先行しそうなものだが、彼女はどこか安堵して見えた。もっとも、ここに来た時点で変わり者のレッテルを貼られたも同然なのだから、この程度でうろたえる方が不自然なのかもしれない。少なくとも彼女にとっては、社会に溶け込むための『当たり前』を押し付けてくる環境よりは、マシであるように感じられたのかもしれない。
「さぁ、所長室はこっちだよ」
先行する誠治の背中を追うように、久里寿の足も踏み出される。一定のリズムを刻む少年の歩みとは対照的に、時折周囲を珍しそうに見回している少女のリズムは不安定であり、気付くと距離が開いている。少年は曲がり角へと到達する度に後方を振り返り、彼女が追いつくのを待たねばならなかった。
「あ、ゴメンね。ちょっと気になっちゃって」
「特に珍しくもない普通の廊下だと思うけど?」
「でもここは、世界で唯一の魔道都市、その心臓部なんだよ。何気ない場所のどこに魔法的な何があるかわからないじゃない。絶対に見逃せないよっ」
その鼻息の荒さに圧され、曖昧な笑みを返す。彼にとっては極めてありきたりな風景に興奮されるというのは、あまり気持ちの良いものではないらしい。
「あら?」
所長室へと続く最後の曲がり角の手前に到達した誠治を、女性の声が出迎える。むろんそれははるか後方をキョロキョロしながら歩いている少女のものではなく、所長室のドア付近から聞こえたものだ。そして当然ながら、誠治には聞き覚えのある声でもあった。
「やぁモモ、もう用事はいいの?」
「えぇ、大した用でもなかったし。貴方こそどうして? あの三人とお昼ご飯に行ったんじゃなかったの?」
小首を傾げ、おっとりとした口ぶりでモモと呼ばれた女性は質問を返してくる。
「それがさ」
言いつつ視線を向けると、少女は掲示板に張り付いていた。彼の元へ到達するには、今しばらくの時間が必要なようである。
「……あぁ、あの子が例の新人さんね」
「さすがにモモは話が早いね。それとも、ひょっとしてもう知ってた?」
「いいえ、さすがに彼女がそうだと知ってはいなかったけど。あの歳で新顔さんならそうかなーと思ってね。というより、むしろワタシ的には――」
いつもぼんやりとして見える穏やかな眼差しを久里寿に固定して、彼女は続ける。
「少し意外だったかな」
「意外って、どんな人を想像してたの?」
「うーん、具体的に思い描いていたワケじゃないけど、あんなに可愛らしい子だと思ってなかったから。ホラ、魔法の素質がある子って、見た目からしてどこか変わってるというか、何か人と違う雰囲気みたいなのがあるじゃない。でも彼女はその、見た目的には普通の女の子っぽく見えるのよ」
「ふーん」
誠治は同意も批判もしなかった。いや、出来なかったと言うべきかもしれない。
「まぁ、見た目じゃわからないけどね。特に女の子は」
悪戯っぽく笑って、止めていた歩みを再開する。
「あ、所長は部屋に居るんだよね?」
「えぇ、でも午後から外出すると言ってたから、早めに挨拶しておいた方が良いと思うわよ」
「わかったよ。ありがとう」
「挨拶が終わったら二人で食堂に来なさいな。新人さんにお昼ご飯くらいはご馳走してあげないとね」
「そうだね」
笑顔が交錯し、擦れ違った二人の距離が開く。
「藍河さーん、そろそろ所長室に行かないとー」
「あ、はーい」
すっかり夢中になって掲示板のプリントを読み漁っていた久里寿が、呼び掛けに応じて振り返る。そこへ丁度タイミング良くモモと呼ばれた女性が通りかかり、穏やかな笑顔と共に会釈を交わした。
「あの、さっきの人って事務員さんとかですか?」
「え、モモのこと? だったら違うよ。彼女も魔法使いさ」
「そうなんですかっ。凄く大人っぽい人だったから、てっきり」
魔法使いの養成は、一つの例外を除き数年前から、十代前半の子供達を対象に行われている。現在魔法使いと呼ばれている者達は、例外なく未成年ということになる。
「まぁ見た目はね。でも、僕らと三つくらいしか違わないよ。それに、ああ見えて結構おっちょこちょいというか……いずれわかるよ」
説明しかけた彼は、曖昧な笑みを浮かべてそう締める。
「そんなことより、とりあえず所長に挨拶しておかないと。午後から出かけるそうだから、急いだ方がいいよ」
「そうだったんですか。どうしよう。ちょっと予定より遅れちゃったし、怒られないかなぁ?」
駅弁を食いまくった結果なので、こればかりは自業自得である。
「気難しい人だけど、きっと大丈夫だよ」
誠治の笑顔に、久里寿は安堵の溜め息を漏らす。彼の笑顔は、懐かしい感じを彼女に抱かせる。その理由となる記憶の奥底へと手を伸ばしかけた時、心地良いノックの音に遮られた。他のドアが飾り気のないプレート一枚の簡素なドアであるだけに、やけに気合いの入った装飾を施された分厚い木製の扉は、あまりにも浮いて見える。むろん特に説明の必要もなく、そこが所長室であることは彼女にもわかった。
「所長、新人さんが到着したので、お連れしましたけど」
「あぁ、入れ」
低い、そして硬く聞こえる男の声に促され、二人は扉をくぐる。するとそこには、豪華な調度品には不釣合いなヨレヨレの白衣を身に纏った、鷲鼻の老人が待っていた。頭頂部が薄く、バーコード一歩手前といった感じである。血色が悪く、今にも倒れそうな青白い顔付きをしているものの、その目付きだけは鋭く、ギラギラと刃物のように輝いて見える。
「あ、あの……えと、初めまして」
手続き上のやり取りは何度かしているものの、こうして対面するのは初めてだったので、久里寿は遅れた謝罪の意味も込めて深々と頭を下げる。
「うん、よく来たね」
「はい、あの……遅れてしまってすいませんでした」
「いやいや、この辺りは交通の便も悪いからねぇ。電車とか色々と乗り継いで疲れただろう?」
「いえ、そんなに」
歩いて疲れましたとは言えないなぁなどと思いつつ顔を上げた彼女が、所長の顔を見て絶句する。
それは何と言うか、背筋の凍るような笑顔だった。悪気があるのかどうかまではわからない。ただ彼女の目から見て、それは単純な笑顔ではなかった。少なくとも、誠治のそれとは明らかに違って見えた。
例えるならそう、どうせ食べるなら美味しく肥え太らせてから食べてしまおうと企んでいる狼か魔女のようだと言えば、わかりやすいのかもしれない。
「とりあえず、今日は荷物を置いてのんびりするといい。誠治、部屋の準備は出来ているんだよな?」
「はい、掃除も終わっています」
「それなら、まずは部屋に案内してあげなさい。それから施設内の案内でもしてやるといい」
「はい、そのつもりです」
所長は頷き、視線が再び彼女へと戻ってくる。しかし先程の感覚が錯覚などではないと主張するかのように、その眼差しを受けた瞬間、彼女の背筋を寒気のようなものが駆け上がる。鋭いが、どこか粘りの感じられる視線を浴びて、自然と彼女の眉根は寄せられた。
「何かあれば、周囲の誰かに相談しなさい。むろんワシに直接言ってきても構わない。ここを新しい家だと思って、存分にくつろいでくれたまえ」
「あ、ありがとうございます」
誠意と受け取れる発言に頭を下げながら、彼女は何か判然としない、得体の知れない不安が心の内に溜まっていくような気がしていた。とりあえず彼女は、この所長が苦手なタイプであろうと認識することにする。
ともかく彼女は自らの望み通り、世界で唯一の魔道都市の住人となったのである。




