疑心
隴西からの進出に失敗して狄道を後にし、本拠地の金城へと敗走した韓遂軍はようやく陣営へと戻った。
兵の顔には疲労と動揺が色濃く刻まれている。
その中心に、負傷を負った閻行が沈痛な面持ちで歩んでいた。
陣幕の奥、韓遂はすでに待っていた。
卓に両肘をつき、射抜くような眼差しで閻行を見据える。
「……戻ったか、彦明」
「はっ……申し訳ございませぬ。馬超に……敗れました」
低く頭を垂れる閻行に、韓遂の声は氷のように冷たい。
「前回はお前が勝ったはずだな。それがなぜだ。しかも生きて戻ったと?」
閻行は顔を上げられず、黙して言葉を失う。
韓遂の眼が細まり、鋭く光った。
「答えよ。彦明、先の戦で奴を討てたのではないか?なぜ見逃した?此度はなぜ奴はお前を見逃した?」
「……」
沈黙が続く。幕内に漂う緊張は、刃のように張り詰めていた。
「ふむ……」
韓遂は卓を指で叩き、低く笑った。
「まさか、寿成の倅と通じておるのではあるまいな?」
その一言に、周囲の将たちは息を呑んだ。
閻行ははっと顔を上げ、慌てて両手を地に突いた。
「断じて!そのようなことはございませぬ!」
韓遂の視線はなおも疑いを帯びたままだ。
「では言え。なぜだ。なぜ馬超を討たなんだ」
閻行は歯を食いしばり、ついに吐き出す。
「……あの時、嫡子である奴を討てば、必ずや馬将軍との遺恨は深まりましょう。韓将軍と馬将軍との仲は、決定的に破綻します。それを避けたく……」
言い終えると、幕内はしんと静まり返った。
韓遂は目を細め、しばし黙考する。
「……なるほど、一理はある。だがな、彦明」
その声は低く押し殺していたが、なおも鋭かった。
「戦場において情けは毒だ。敗北は敗北。お前が馬超を逃したがゆえに、我が軍は退かざるを得なかった」
閻行は額を畳に押しつけ、呻くように答えた。
「……申し開きの余地もございませぬ」
韓遂は立ち上がり、衣の裾を翻した。
「よい、今回は不問とする。だが次は無い。……彦明、貴様の忠義、しかと見せてもらうぞ」
その声音には、なおも猜疑の影が残っていた。
閻行は胸の奥で苦々しく唸りつつ、深々と頭を下げた。
韓遂はその背を冷ややかに見下ろし、配下に命じた。
「彦明を監視せよ。些かでも怪しき動きあらば、容赦はならぬ」
帳内に重苦しい沈黙が落ちた。
閻行は立ち上がり、傷の痛みに顔を歪めながら退出していく。
その心中には、馬超に対する奇妙な感情が芽生えていた。
(『涼州大人』と謳われた韓遂様の実力は確か…しかしその子供たちは小物揃いでたかが知れている。あの小僧の方が将としての器は上なのは明らかだ。むしろ奴ならば韓遂様や馬騰殿すらよりも…?この千々に乱れた涼州の地をまとめあげられるのではないか?)
涼州の荒野に、忠と疑念、義と策謀が交錯しつつあった。
金城郡 現在の甘粛省蘭州市周辺。郡治所は允吾県。西はチベット高原に接するため羌や氐が雑居した。
隴西郡 現在の甘粛省東南部。郡治所は狄道県。今でも少数民族の自治区が設置されているくらい非漢民族の多い土地。狄道も異民族の土地という意味。




