蝶の羽ばたき(一)
本題まで行けなかったので少し短めです
建安元年(196年) 夏六月
夏も盛りを過ぎ、間もなく秋を迎えようとする頃、枹罕を陥とし隴西を平定した馬超は冀へと帰還していた。
内地に移住させられた羌や氐がよく叛くのは、漢人の属吏や豪族によってきつく使役され、その労力を搾取されるが故だった。
そのため馬超はその身に流れる羌の血を彼らに対して誇り、守護することを約して慰撫することとした。
隴西周辺の羌の鍾、 鳥吾、卑湳、勒姐、氐の白馬らの長たちを招き、牛や羊を屠って宴を囲みもてなすと彼らはみな感激し、こぞって従う事となった。
そして彼らの内から精強な者を選抜し、改めて涼州義従として併せ騎兵として鍛えることとしたのであった。
◇
冀へと戻り登庁した馬超を待っていたのは官吏たちからの報告であった。
今年の春より三皇秘典を基とした農・工・医の改革が漸次進められており、その進捗や成果が続々と報せられた。
「春に作付けした小麦は新たに導入した施肥のおかげか良く実っております。立毛間播種…でしたか。麦を刈り取る前に畝の間に大豆を作付けさせる手法も試させております」
「そうか、それは喜ばしいことだ。近頃の涼州は寒冷ゆえ実りも悪かったからな、特に寒さに耐えてよく実った穂を選び翌年の種籾とせよ。これを何年も繰り返すことで多くの穂が寒さに強くなる。病に耐えた穂も同じだ。あるいは背の低い穂を選ぶことで倒れにくくもなる。すぐに成果の出るものではないが、十年後二十年後の実りのために備えよ」
楊阜からの報告に馬超は満足して頷く。
品種改良は一朝一夕では為せないが、今からでも少しづつ概念を広めていくことで効率的な手法が浸透していくのを期待していた。
今後は農作物のみならず、馬や牛、羊、鶏などの改良も進めていくべきだろう。
「試しに設置した水車は上手く作動しており、揚水や粉挽に用いております。新式の桔槔《手押しポンプ》も水汲みが大変楽になったと評判です。職工が慣れれば各地に設置することも可能でしょう。耐火煉瓦はまだ作成できておりません、工典に記されている通りおそらく粘土の質によるのでしょう。今は他の地からも土を取り寄せているところです。骸炭も試しておりますが、まだまだ不完全なようで火の勢いは木炭に劣ります。鋳鉄にも用いてみましたが出来た鉄は脆くなってしまいました」
「なるほどな…水車の量産は急がせろ。灌漑が出来る範囲が広がればそれだけ田畑も拡げられる。煉瓦や骸炭も引き続き試して行くように」
続けて尹奉から挙げられた報告に悩ましそうに眉根を寄せる。
全てが順調に進んでいる訳ではないが、未来の技術が有用であると知っている以上進めない理由は無かった。
今は冀のみではあるがいずれは漢陽、あるいは涼州全体で研究や試験を進めていけば発展は加速していくはずである。
「城内に清潔な産院を建て、郷里から臨月の産婦を集めて出産させるようにさせました。手洗いや灰汁による清掃、帛布の煮沸などを徹底させたところ、産褥で母や子が亡くなる数が目に見えて減っております。また絵付きの五禽戯、按摩の札を配り行わせたところ体の調子が良くなり、黄帝の恩徳だと評判です」
「子は天下の宝、産院は各郷里に設えるよう手筈を整えよ。黄帝の恩徳は…淫祀邪教に繋がらぬように気を付けよ」
趙昂には妻の王異を用いて産院を設立させ、その運営を任せていた。
出産時の母子の死亡率を下げるのは食料を増産するのと同じくらい人口増加に寄与し、社会経済、ひいては国家の成長発展のために重要な施策である。
王異は蔡琰と仲良くしているようで、馬超のもたらした医療の知識を蔡琰を通じて学んでいるらしい。
◇
一通りの報告を受けて溜まった決裁書類の裁可を行っていると、孟達が政庁へと現れた。
「扶風の蘇文師殿、馮翊の吉叔暢殿が令君に面会を請うております」
「ふむ、何者だ?」
「蘇文師殿は扶風で義人として知られておりました。孝廉や茂才に挙げられ、三公の府にも招かれましたが宦官の跋扈していた朝廷を避け応じなかったとか。吉叔暢殿のことは寡聞にして知りませぬが、馮翊の吉家は著姓として知られております」
「なるほど…では通してくれ」
恐らく混乱した三輔から避難してきた名士なのだろうと納得した、とりあえず馬超は二人に会ってみることにした。
通された二人は粗末な布衣に身を包み、みすぼらしい姿で平伏していたが、その目には力強い輝きがあった。
「武功の蘇則、字を文師と申します。三輔はなお荒れ、我らは一たび安定に逃れて豪右を頼りましたが、冷ややかにあしらわれました。やむなく太白山の山中に小屋を結び、晴れた日は畑を耕し雨が降れば書を楽しんでおりました。今、冀では安狄将軍が善政を敷き、賊を平らげて和をもたらしたと聞き及び、参上した次第です」
「私は池陽の吉茂、字を叔暢と申します。董太師の政以来、道々死人の影は絶えず、飢えた目で釜の底を覗く者も多くございました。民のための政に、我らも力を尽くしたく存じます」
「よくぞ参られました。お二人が隠れておられたのは太白に火を隠すごときでしたな。今、将軍は金城平定の途上ゆえすぐに会わせられないのが残念だが、戻られるまでの間お二方には賓客として過ごしてもらいましょう」
名士の評判と言うのはこの時代、非常に強い影響力を持っていた。
馬超は孟達から二人についての評判を聞くに及び、今後三輔に進出する上で奇貨となる可能性があると判断して丁重に遇することに決めたのであった。
義従 漢代においては帰順した異民族を指す。涼州義従(羌・氐)、義従胡(月氏)など。王国・宋建らも元は涼州義従であった。三国志で義従と言えば公孫瓚配下の白馬義従が最も有名で、特に異民族であるという記述は無いが鮮卑を降して配下に組み入れたとはあるのでもしかしたらその鮮卑兵だったのかもしれない。
蘇則 字は文師。生年不明。右扶風武功の人。剛直で清廉な為人ではじめ官には就かなかった。郷里が混乱すると安定に疎開して豪族の師亮を頼ったが冷遇されたので後で太守として戻ってきて糾してやると言って去り太白山の山中で晴耕雨読の生活を送った。後に涼州各地の太守を歴任し、異民族の反乱によく対応した。後に禅譲が行われた際に献帝が崩御したと勘違いして嘆いたため曹丕に嫌われ左遷された。
吉茂 字は叔暢。生年不明。左馮翊池陽の人。兄の吉黄は長陵の県令だったが、司徒の趙温が亡くなると故吏だったため許可なく任地を離れて葬儀に駆け付けたため法に触れて司隷校尉の鍾繇に処刑されたが、兄は道義に殉じて死んだとして怨みを抱くことは無く、後に鍾繇に推挙されるとこれに応じた。遠い親戚の吉本が曹操に対する乱を企てて連座しそうになったが、逮捕されても泰然としており鍾繇が弁護したため処刑を免れた。




