枹罕崩れ
建安元年(196年) 3月
春の朝靄が黄河を包み、山の端から日が昇りかけていた。
その静寂を破るように、五十騎ほどの騎馬が砂塵を上げて允吾に続く街道を駆け抜けていく。
中団を走る龐徳は鎧の埃を被ったまま、手綱を締めてまっすぐ城門へ向かった。
「開門!龐令明である!孟起様に至急の報せである!」
門番が慌てて開門する。
城内は驚くほど静かで、民は慎ましく往来している。
市の入り口には馬超麾下の兵が警備に立ち、巡邏の足並みは揃い、顔には緊張ではなく落ち着きがあった。
龐徳は思わず馬を緩め、その整然とした有り様に目を見張った。
戦後間もない街とは思えない。
略奪も暴行もない――まるで、長年の統治が行われていたかのように秩序が保たれていた。
「……流石、若の鍛えた兵よ」
彼はそう呟き、再び手綱を引いて政庁へと駆け込んだ。
◇
「令明か、よくぞ戻った!して、父上はなんと?」
金城郡の治府にて龐徳とまみえた馬超はまずは帰陣を労い、次いで馬騰からの言伝を確かめた。
龐徳は膝を着いて応える。
「はっ!将軍は金城を慰撫するために兵を率いてこちらに向かわれております。降兵に対する沙汰は直接下されるとの事」
「父上自ら来られるか…ふむ、でどのような反応であった」
馬騰が既に出立したとの報に馬超の眉が僅かに動いた。
「そうですな…韓遂の首を見て少し寂しそうなお顔をしておられましたが、涼州を一統する機であるとすぐにご決断されました。降兵についても寛大な処置をされるかと」
「そうか、それであれば俺の面目も保たれるというものだ」
馬超は満足げに頷き、部下たちに馬騰を迎え入れる準備をするように指示を出した。
◇◇◇
三日後の午後、城外の街道に土煙が立った。
馬騰率いる一万余の進軍であった。
騎兵が整列し、槍と旗が整然と並ぶ。
行軍の音は重くも美しく、秩序の極みを感じさせた。
馬超は城門の外に出て、父を迎えた。
馬騰は馬上から息子を見下ろし、しばし無言のまま。
やがて頷き、一言だけ発した。
「超よ、よくやった」
その一言で、長き戦の終わりを感じ取った者も多かった。
◇
城内に入ると、馬騰は直ちに府庁にて降将たちを召した。
閻行と成公英も共に頭を垂れて控える。
「顔を上げよ」
馬騰の声は静かだった。
怒号でも威圧でもないが、その一言に広間の空気が引き締まる。
閻行は深く息を吐いて顔を上げた。
「安狄将軍。罪人、閻行にございます。かつて韓文約に仕えましたが弑して降りました。主を討った罪、万死に値すること承知の上。どうか裁きを願います」
馬騰はその眼を見据え、長い間黙していた。
「君主を弑するは、古より大罪。だが、他の者を救うための刃であったと聞く。真か?」
「偽りございません。暴挙を止めるためにやむなく……」
「…そうか」
馬騰はゆっくり頷いた。
「その罪、孟起の下で贖うがよい。隊を率い、五十名の兵を与える。以後、命を賭して民を守れ」
閻行は深々と頭を下げた。
「ははっ……この命、義に返して使い果たします!」
次に、成公英が進み出た。
彼は静かに礼を取り、堂々とした声音で言った。
「成公英と申します。安降将軍に従い、金城の都尉を代行しておりました。主を失いましたが、安狄将軍が民を安んじると信じ降り従います」
馬騰は頷き、微笑を浮かべた。
「よかろう。引き続き従事として豪強、旧臣の慰撫に協力せよ」
成公英は深く一礼した。
「拝命いたします」
その瞬間、広間に柔らかな空気が流れた。
敵味方として血を交えた者たちが、今ここで同じ主の下に立つ。
長く続いた分断は、ようやく一つの形を見せたのであった。
◇
続けて馬超は馬騰の前に跪き新たな命を受けた。
「超よ、金城の慰撫は我が担う。お前はこれより隴西に向かい宋建を伐て。詳しくは孝直より聞くがよい」
「はっ!御意のままに」
馬騰の軍中には法正・孟達の両名も兵を率いて随従してきており、馬超は騎兵を率いて合流した。
「令君、韓遂の死を受けて枹罕へといくつかの文を送りました。動揺は窮まっており、あと一押しで崩れるかと」
「そうか、示威だけで済めば助かるのだが」
「恐らくそのようになるかと」
法正は龐徳が携えてきた韓遂の死と閻行の降伏を報せを聞き、好機とみて先年から行ってきた宋建陣営への揺さぶりの仕上げに取り掛かっていた。
不満を抱いている配下たちにさらなる密書を送ったり、敢えて城下で小火騒ぎを起こして間諜の証拠を残したりと様々な策を張り巡らせていた。
枹罕に張り巡らされた策謀の糸は最硬張に達し、あと少しで引きちぎれる状態まで至っていた。
◇◇◇
夜の枹罕の政庁に、宋建は荒い息で使者を迎え入れた。
泥に塗れた早馬が血泡を吐き、使者は膝をついたまま叫ぶ。
「報告!韓遂、漢陽に侵攻するも敗れ、逃げ帰ったところで配下の謀反により討たれたとのこと!」
堂内が凍りつく。
宋建の手から酒盃が滑り落ち、床板の上で鈍い音を立てた。
「……韓遂が、討たれただと?」
阿咸は眉をひそめ、王石は唇を噛む。
劉佑はただ黙して眼を伏せた。
◇
翌未明。
政庁脇の小堂から火の手が上がり、番兵が駆けつけた。
焦げた香木の陰に、半ば焼け残った竹簡が転がっている。
『――丞相殿へ。馬家は朝廷に取り成す。証左は後日――』
墨跡はまだ新しい。
書手はわざと名を伏せ、封もせず、堂内の目に触れる場所へ“置いて”いた。
「誰の手だ、これは……!」
竹簡は政庁に運ばれ、宋建の顔から血の気が引いた。
目の前に座すのは先ほど名を呼んだ三人――羌の大将軍、氐の軍司馬、漢人の丞相。
密書の宛名はまさにその一人である。
「劉佑、貴様――!」
「お待ちを!」
劉佑が蒼ざめて両手を突いた。
「その文は私の預かり知らぬもの……!奴らの罠にございます!」
だが宋建の耳は、既に疑念の唸りで塞がれていた。
◇
数日後、さらに追い討ちの報が入る。
「馬孟起、兵を率いて隴西に入り、枹罕へと向かっているとのこと!」
宋建は立ち上がると、激しく卓を叩いた。
「皆、儂を売る気か!阿咸、王石!この賊臣どもを捕らえよ!劉佑も獄へ――今すぐにだ!」
阿咸と王石は、互いに一瞬だけ目を交わした。
兵たちの足が止まる。
堂の外では、誰かが吐き捨てるように言った。
「……兵は腹が減っている。主は酒を飲み、倉は開かれぬ」
裂けるような沈黙。
宋建は叫ぶ。
「命に背くか!」
その刹那、王石が一歩踏み出した。
若い軍司馬の手が、躊躇なく刀の柄を払う。
「もはやここまで!我らも韓遂の部下に倣うべきだ!」
鋼の閃き。
衛兵が慌てて槍を構えるが、阿咸が遮って怒鳴った。
「退け!既にその者は我らの王に非ず!」
王石の刃はまっすぐに宋建の首を抉った。
吹き出す鮮血、短い呻き、倒れ伏す音。
酒と墨の匂いが混じり、燭の炎だけが揺れ続ける。
劉佑は震える膝で立ち尽くし、やがて深く嘆息した。
「……終わった。すぐに城門に梟首して降伏の使を送ろう」
阿咸はうなずき、部下たちに低く命じた。
「鐘を鳴らすな。兵を散らすな。倉に封を――」
◇
翌日の昼。
白旗と宋建の首が掲げられた枹罕の城門は、静かに開いた。
漢人も羌も氐もみな武器を捨て、馬超が率いる兵を迎え入れる。
馬蹄が石畳を踏む音だけが長く続き、略奪の叫びはどこにもない。
阿咸・王石・劉佑らをはじめとした宋建の任じた百官が政庁の前で平伏する。
「民の血を流さぬことを第一に――旧罪は問わぬ。ただし、以後は律に従え」
馬超の言葉に、百官らは低頭して地に額を擦り付けた。
城の上では春の風が旗を鳴らし、遠くで河水の水音が微かに響く。
中天の日射しは強く、来るべき夏の予感を漂わせていた。




