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義心

允吾(いんご)の東、黄河の手前の亭にて閻行(えんこう)馬超(ばちょう)を待ち構えていた。

閻行に同調した蔣石(しょうせき)麹演(きくえん)らに允吾の城を任せ僅かな従卒だけを連れている。

春とはいえ山風は冷たく、木立の間を抜けるたびに土の匂いが鼻を掠める。

その亭の入り口にてに、武具を帯びずに閻行が立っていた。


「……来たか」


閻行は空を仰いだ。

沈む陽が雲間に差し込み、遠くに小さな土煙が立ち上る。

やがてそれが列を成し、騎馬の影を映し出した。


千騎あまりの騎兵が整然と速歩で近付いてくる。

その先頭に立つ青年の姿を見たとき、閻行は自然と息を呑んだ。

かつて戦陣で幾度も遠目に見たその面影――今や光をまとったように堂々としている。


馬超と親衛と思しき数名が馬を下り、ゆっくりと歩み寄った。

互いに数歩の距離を隔て、視線が交わる。


「……彦明(閻行)殿」

「先日ぶり…ですな。孟起(馬超)殿に突かれた肩がまだ痛みます」


閻行は負傷した肩を押さえて苦い笑みを浮かべてから、膝を着き額を地に擦り付けた。


「敗残の身にて主君を弑した咎人なれば、ただひたすらに裁きを待つのみ。願わくは残兵数千と金城(きんじょう)の民にはご寛大な処置を――」


馬超はその言葉を遮らず、静かに見下ろした。


韓文約(韓遂)は、道を誤った。諸兄らが叛して討ったのは是非に及ばず」

「……はい」


閻行の声は低く、しかし震えてはいなかった。


将軍(韓遂)は、もはや我らが止め得ぬほどに心を失っておりました。敗戦の責を我らに押し付け斬ろうとした。故にやむを得ず刀を取ったのです」


既に先日使者として訪れた蔣石からも聞いていた内容の反復であった。

言葉は続かず、沈黙が降りた。

馬超はその沈黙を責めず、ただ静かに頷いた。


「……主君を討ったこと、軽々しくは言えぬ。だが義を失った将であれば非とは言えまい――安狄将軍(馬騰)は降兵を容れぬ人ではない。共に新たな道を歩めるよう私からも言い添えよう」


閻行は顔を上げ、驚きの色を浮かべた。


「……よいのですか?」

「そもそも同じ涼州(りょうしゅう)の人士ではないか。もはや無闇に血を流すことが正義ではない。むしろ和を結び、矛を収めることこそ義の道だ」


その言葉に、閻行の眼が静かに濡れた。

長く戦乱に身を置き、命令と殺戮に慣れきった男にとって、それは久しく忘れていた響きだった。



途中の宿駅で馬を乗り継ぎ、急ぎ()に戻った龐徳(ほうとく)が府庁にて馬騰に引見していた。


「急ぎ戻ったようだが、何の報せだ」

「はっ!報告いたします!韓遂、閻行の手にかかり討たれました!閻行は降り、若…孟起(もうき)様が接見に金城へと向かわれました!」


広間にどよめきが走る。

幕僚たちは互いに顔を見合わせ、信じられぬという表情を浮かべた。

馬騰は眉をわずかに動かしたが、表情を崩さなかった。


「詳しく話せ」


龐徳は頷き、後ろの従卒に持たせていた箱の蓋を開ける。


「まずはこれを。証として持ち帰りました」


布包みを解くと、そこには乾いた血の匂いを放つ首があった。

髭は乱れ、眼は半ば開き、死してなお威を残している。

韓遂の首であった。


一瞬、広間が静まり返る。

誰も息を呑む音すら立てられなかった。


「……文約(ぶんやく)、か」


馬騰が呟くように言った。

その声は重く、哀しみとも警戒ともつかぬ響きを帯びていた。


「閻行が討ったというのか」

「はい。敗残の後、乱心した韓遂が配下たちに敗戦の罪を追わせようとした為にやむなく弑したとか。孟起様はおそらく真であろうと」


馬騰は長く沈黙した。

やがて胡牀(椅子)に腰を下ろし、低く息を吐いた。


「…………そうか。よし、兵を率いて金城に()く。急ぎ準備せよ」


馬騰の命でにわかに部下たちは慌ただしく動くはじめた。



春の陽が昇り、允吾の場内は静まり返っていた。

人々は家々の戸を閉ざし、通りには馬蹄の音だけが響く。

馬超はその音を背に、府庁への道を進んだ。


仲俊(ちゅうしゅん)……成公英(せいこうえい)を連れてこい」


閻行の命に、兵が牢から一人の男を引き出してきた。

髪は乱れ、衣は土にまみれていたが、背筋は真っ直ぐだった。

両腕を縛られたままでも、その眼光には確固たる誇りが宿っている。


「………貴様が馬超か」


成公英は馬超を見るなり、憎悪とも悲哀ともつかぬ声で名を呼んだ。


「馬騰の孺子(じゅし)が何の用だ!」


閻行が一歩進み出て声を上げる。


「仲俊、言葉を慎め!孟起殿は我らを赦し、この地を守る道を与えてくださったのだ!」


「赦しだと?将軍の怨敵に頭を下げられるか!」


成公英の声は激しく震えた。


「お前は忠を捨てた。義を汚した裏切り者だ!」


閻行は顔を歪め、言葉を失った。

自らの手で主を討った事実は、どんな理でも覆せない。

だが、馬超は静かに口を開いた。


「仲俊殿。貴君が韓文約に尽くした忠、私も聞き及んでいる。だが問う――忠とは誰のためのものか?一人の主のためか、それともこの地に生きる民のためか?」


成公英の眉がわずかに動いた。


「……民のため、とは……?」


馬超は歩み寄り、彼の前に立った。


「韓文約は涼州の大人であった。最後には己の怒りに囚われ、兵や民を顧みぬ道を選んだが――そもそもなぜ彼は漢家に叛旗を翻したのだ?苦しむ民草を救うためではなかったのか?」


成公英は目を閉じた。

沈黙の中、鳥の声が遠くで響く。


「……口先ではいくらでも言える。だが貴様らが将軍と矛を交え敵対したのも事実」


馬超は頷いた。


「否定はせぬ。だが、それを終わらせるために今ここにいる。我らはただこの地を奪うために戦ったのではない。涼州を、民を、戦から解き放つために戦ったのだ」


その声音には一片の誇張もなく、真実の響きがあった。

成公英は顔を上げ、まっすぐに馬超の目を見た。

そこには敵意も傲慢もなく、ただ真摯な光があった。


「……もし、その言葉が偽りでなければ」

「偽りではない」


閻行が膝をついた。


「仲俊、俺はこの手で将軍を討った。ただ己の首だけであれば従容(しょうよう)として差し出していた。だが、暴虐によって多くの血が流されるのを見過ごすことは出来なかった。俺は己の血で償う覚悟で、義のために剣を振るったのだ」


成公英はしばらく二人を見つめていた。

やがて、深く息を吐いた。


「……貴様らの語る義の行く末、この目で見届けさせてもらおう。義を違えた時は覚悟召されよ」


馬超は頷き、兵に命じて縄を解かせた。


「ここに義士を得た事、真に頼もしく思う」


縄が解かれると、成公英はその場に跪き頭を垂れた。


「民のためにこの首を捧げよう」


馬超は手を差し伸べた。

成公英はその手を見つめ、そして握った。


「では共に歩もう。民のため、義のためにな」


閻行が目を閉じ、長い息を吐いた。

その背にかかる陽の光が、まるで重荷を解くように彼を包んだ。

蔣石・麹演 一説に韓遂が最期を迎える際に討ったとされる金城・西平の諸将。詳しい経歴は不明。恐らくは韓遂に従っていた配下と思われる。

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