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渭水の戦い(二)

昼の陽は中天に高く昇り、渭水(いすい)の濁った流れに白い光を散らしていた。

韓遂(かんすい)の大軍はなお北岸に留まり、渡河に手間取っていた。

午前の数刻、矢雨と水流に翻弄され続けた兵の顔には、疲労と怯えが色濃く刻まれていた。

中には槍を泥に突き立て、呆然と立ち尽くす者さえいる。


「何をしている!橋を組み直せ!」


部将の叱咤が轟いた。

彼らの声は怒りに満ちていたが、怒声だけでは兵は動かない。

午前の間にすでに数百が流され、さらに数百が矢に倒れた。

渡河を強いられる兵にとって、川の濁流は死を意味し、南岸から絶えず降る矢雨は生の望みを打ち砕いていた。


それでも大軍の勢いは簡単には止まらない。

命じられた歩兵の一部は恐怖に震えつつも前に進み、再び仮橋の建造に取りかかった。

丸太を担いで泥に沈み込み、汗を滴らせながら杭を打ち込む。

水音に混じって木槌の音が響き、継ぎ目を縛る縄の(きし)む音が戦場にこだまする。


だが作業は思うように進まない。

午前に失敗した橋脚の残骸が流れに引っかかり、新たな材木を組む場所を妨げていた。

増水した渭水の流れは速く、杭を打ち込んでもすぐに(かし)ぐ。

作業兵が「無理だ」と叫べば、監督役の将校が鞭を振り下ろし、強引に押し進める。

恐怖と怒声が交錯し、秩序はどこか歪んでいた。


その混乱の最中、またもや南岸から矢が唸りを上げた。

午前中より矢の密度は減ったが、それでも数十、数百が空を裂き、作業中の兵を襲う。

橋に取り付いた兵の中から悲鳴が上がり、矢に倒れて水に落ちる。

矢羽の音と叫声が絡み合い、仮橋は完成から遠ざかっていく。

韓遂は歯噛みした。


「敵はわずか数千に過ぎぬ!だが川を味方している……」


幕僚が口を開きかけたが、彼はそれを遮った。

苛立ちと焦燥が彼の言葉を荒らげる。


「ここで止まれば全てが無駄になる!進ませよ!」


それでも兵たちの動きは精彩を欠く。

それだけ午前の惨状はあまりに鮮烈だった。

濁流に攫われた同僚の顔、矢に倒れた仲間の声――それらが兵の心を縛り付けていた。

その時、川上から不穏な報が届く。


「敵別働隊、南岸に布陣!」


報告を聞いた将校の顔色が変わった。

韓遂も一瞬息を呑む。

確かに、南岸には数本の旗が見える。

煙が立ち上り、数十の焚火が昼なお赤々と燃えていた。

遠目には大軍の陣のようにも見える。


「援軍か?いや、違う。あれは偽兵だ!」


幕僚の一人が叫ぶが真偽を確かめる暇はなかった。

兵たちはすでに動揺し、噂が噂を呼んで走り出していた。


「後ろを衝かれるぞ!」

「挟み撃ちにされる!」


誰かが叫べば、列の端から端までその声が広がる。

恐怖は疾風のごとく広がり、橋に取り付いていた兵までもが手を止めた。


それはすべて法正(ほうせい)孟達(もうたつ)の仕業だった。

彼らは前夜から周到に準備を整えていた。

南岸に偽の焚火を並べ、あたかも数千の兵が潜んでいるかのように見せかける。

さらに偽の伝令を紛れ込ませ、「馬騰軍が迫る」と叫ばせた。



人は恐怖に疲れたとき、もっとも信じやすい噂を選ぶ。

それを法正は熟知していた。

姜叙(きょうじょ)が彼に問う。


「噂に惑わされ、兵が動かぬ。だがもし本当に進まぬままなら、渡らずに退いてしまうのではないか?」


法正は薄く笑った。


「渡らせぬことが目的ではありません。混乱の中で無理に渡らせ、橋上で足を止めさせる。それが最も脆い。橋を半ばまで架けさせた時が好機です」


姜叙は唸り、やがて頷いた。

確かに、渡河を阻むだけでは敵は立ち去る。

だが渡らせた後に叩けば、逃げ場を失った兵はより深い地獄に落ちる。



未の刻の半ば(午後2時)、韓遂軍は消耗を押してなお仮橋を架け続けていた。

作業は遅れに遅れ、午前中に比べても効率は悪い。

だが兵の数は多い。

数百が倒れても、次の数百が杭を担ぎ、泥を踏み、汗を流す。


将校たちは鞭を振るい、兵の背を押し、ようやく橋脚の一部が形を成し始めていた。

それは無理を重ねた努力の果てであり、同時に破滅の伏線でもあった。

馬超は高地からその様子を眺め、目を細めた。


「橋が半ばまで成ったな」


龐徳が唸る。


「流石に数の力か」


南岸の陣営には静かな緊張が漂っていた。

矢羽の音はまだ響いていたが、その射は午前ほど激しくはない。

兵と矢を温存し、決戦のために力を蓄えていた。



午後の陽が鋭さを増す中、午前中に幾度も挫かれた仮橋の作業は、幾つもの汗と血を犠牲にしながらも、ついに半ばを超えようとしていた。

丸太が束ねられ、杭が並び、濁流の上に頼りないが確かに橋脚が伸びていく。


「進め!まだ足りぬ!杭を打ち込め!」


督戦する将校たちの声は嗄れ、兵たちの息は荒い。

だがそれでも橋は延びた。

やがて川の中ほどに材木が並び、渡河の希望が現れた。

兵たちの顔には恐怖と同時に、かすかな安堵の色が浮かぶ。


その瞬間、上流で轟音が響いた。


「何だ……?」


振り向いた兵たちは目を見開いた。

孟達の工兵が築いた堰の残りが、再び崩れ落とされたのであった。

杭が(たわ)み、土台を補強する積み石が崩れ、濁った水が奔流となって押し寄せる。

轟々たる音とともに水位はさらに上がり、仮橋の下を流れる。


「橋脚が、流されるぞ!」


叫びは現実だった。

仮橋の材木が軋み、縄が千切れる音が響く。

兵たちは必死に抑えようとしたが、流れの力は彼らの力を嘲笑うかのように橋を揺らした。

足を取られた数十人が水に呑まれ、叫びとともに姿を消す。

仲間を助けようと伸ばした手も空を切り、濁流に攫われる。


橋脚に取り付いた兵は恐怖に震えた。

午前に同じ惨劇を見ていた彼らは、再び同じ死の光景を目にしたのだ。

足元の材木は不安定で、揺れるたびに心臓が跳ね上がる。

誰もが叫びたい衝動に駆られ、実際に叫んでいる者も多い。


「もう無理だ!」

「逃げろ!」

「貴様ら!赦さんぞ!」


列の中からそんな声が飛ぶ。

だが後方では督戦隊が剣を抜き、退く兵の背に刃を突き立てた。

逃げようとする者は容赦なく斬られ、その場に崩れ落ちる。

前に進むか、死ぬか。選択肢はなかった。


こうして数多の犠牲を払いながら、さらに橋を延ばす作業が続けられた。

数だけは多い、たとえ数百が死に数百が逃げても、次の数百が押し出されてくる。

流れに飲まれる者の後ろから、新たな者が杭を担いで進む。

その光景は悲惨であり、同時に執念でもあった。



南岸の高台からそれを眺める馬超は、目を細めた。


(むご)いものだ」


龐徳が憤然と槍を握った。


「犬死にだ。あれほど削ってもなお橋を延ばすとは」


だが馬超は冷ややかに答える。


「数は侮れぬ。だが、半ばで止まればこそ脆い。橋の上で足を止めさせるのだ」


彼の声は低かったが、確信に満ちていた。

高台に様子を見に来ていた法正はその傍らで頷いた。


「恐怖に追われ、督戦に押されて無理に渡る。これが狙いです。橋の半ばに至れば退くこともできぬ。そこに背後から大軍が現れれば…」


彼は言葉を濁し、口元に笑みを浮かべた。

勝敗はまだ決してはいない。

だが布石はすでに揃いつつあった。


申の初刻(午後三時)過ぎ、仮橋はついに南岸に届きそうな勢いを見せ始めた。

韓遂軍の兵たちは歓声を上げ、死の恐怖の中でわずかな希望を見出した。

橋が完成すれば、数の力で敵を圧倒できる――そう信じて。


だがその背後には、まだ知らぬ脅威が迫っていた。

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