渭水の戦い(一)
早春の風が渭水の流れを撫で、黄濁した水面を細かく波立たせていた。
暦の上では春といえど、早朝の風は肌を刺すほどに冷たく、韓遂軍の旗をたなびかせている。
途中の城邑から徴発した兵三千を加えた一万五千の大軍が、長い行軍を経て渭水北岸にたどり着いた。
金城を出立した時には活気に満ちていた列も疲労と緊張を抱え、隊列は泥に沈むように重々しかった。
「さすがに冀には守兵を残していたようだが、見たところ三千余りといったところか。あの程度の小勢、一気呵成に踏みつぶしてくれるわ」
韓遂は馬上から対岸に築かれた陣を眺める。
川幅と流量を考えたら渡河を行うのにはここが冀への最適、最短の道。
それ故に冀の守兵もここに陣を構えたのだろうが、彼我の衆寡を考えれば県城に籠っているべきだろうと鼻で笑う。
春は雪解けで河の水と勢いが増すものだが、幸いなことに今年は寒さが続いたせいかそこまで水かさが増していないように見える。
歩の腰まで浸かる程度ならば、向こう岸まで索を渡し、それに捕まりながらならば何とか渡り切れるだろう。
騎も馬の鼻面を上流に向けて斜めに進ませれば良い。
「敵の動きに注意しながら浅瀬を探して索を通せ!」
一方、最も河端の狭い箇所では仮橋の建造が始まっていた。
丸太を担いだ兵が泥に足を取られ、冷たい流水に体温を奪われながら必死に杭を打ち込む。
だが木材は濡れて重く、橋脚は水の抵抗で揺れ、作業は思うように進まない。
兵たちの顔には焦りが滲み、声は荒くなり、統制が緩みはじめる。
「急げ、日が高いうちに渡りきらねばならん!」
閻行の叱咤が飛ぶが、兵たちの手は止まる。
川の中央で木材を組んでいた一団が、突如として悲鳴を上げた。
一本の丸太が流れにさらわれ、結びつけていた縄が千切れ、作業中の男が水に巻き込まれて消える。
周囲の兵が慌てて手を伸ばすが、濁流はそれを容赦なく攫っていった。
見ていた兵は青ざめ、誰もが目を逸らした。
その時、乾いた音が空を切った。
ひとつ、ふたつ、続いて十、二十。
矢羽が唸りを上げて飛来し、作業中の兵たちの頭上に突き刺さる。
最初の数本は外れたが、やがて密度を増し、仮橋上で作業する兵たちの頭上へと雨のように降り注ぐ
矢の落ちる角度は高く、仰ぐほどの放物線を描いて降り注ぐ。
しかも連射が途切れない。
兵たちは慌てて盾を掲げたが、密集した作業現場では防ぎようもない。
叫びと怒号が混じり、混乱は一層深まる。
「くそっ!なぜ矢が届くのだ!」
対岸では下馬した敵騎兵たちが弓に矢をつがえて斜め上へと放っていた。
韓遂は唇を噛み、旗を振って応射を命じた。
だがこちらの弓は射程が短く、対岸に届かぬまま空を切るだけ。
矢を浪費するばかりだった。
渡河を控えた韓遂軍は、早くも数百を失い、さらに多くが足を止め、恐怖を募らせていた。
濁流は兵の心を試し、矢雨はその意志を削っていく。
まだ巳の刻も半ばを過ぎたばかりであるにもかかわらず、軍全体に暗い影が差し込んでいた。
◇
馬超はその光景を塞に築かれた高台から見下ろしていた。
彼の眼は冷たく、感情を見せぬ。
だが胸中には確かな手応えがあった。
「これでよい。奴らは自ら足を止める」
龐徳が隣で笑みを浮かべた。
「この調子なら、将軍が到着するまで持ち堪えられましょう」
「油断は出来んがな。戦場では何が起こるかわからん」
馬超は短く頷きながらも敢えて釘を刺す。
戦の幕は開いたばかりであった。
◇
韓遂軍が渡河を試みている間、矢は絶え間なく飛んでいた。
馬超の指揮下にある騎兵一千五百は、いまや馬を後方の防柵に繋ぎ、土塁の塞から弓を構えていた。
その姿は騎兵というより、熟練した射兵の軍団に近い。
彼らの手に握られているのは新たに鍛え上げられた胡式の弓であった。
木と角と腱を巧みに重ねたその弓は、従来の弓よりも遥かに強靭であった。
高く引き絞れば弦は悲鳴を上げ、放たれた矢は大弧を描いて渭の上を越え、北岸の密集する兵群へと落ちていく。
「もっと高く、列を散らせ!」
馬岱の声が響き、兵たちは一斉に弓を引いた。
合図の太鼓が一打鳴らされると、数百の矢が空に舞い上がる。
空は黒く染まり、やがて雨のように落ちていった。
矢羽の擦れる音とともに、対岸の韓遂軍から悲鳴と怒号が湧き上がる。
曲射の矢には一発ごとに命を奪うほどの威力はない。
だが密集の上に降り注ぎ続ければ、いかに勇敢な兵とて平常心を失い、盾を掲げて足を止める。
渡河を前にして立ちすくむ兵は、すでに戦力とは呼べなかった。
それでも進もうとする勇敢な先陣には歩兵が構えた強弩の直射が襲い掛かる。
こちらは弓ほど連射は効かないが、弓よりも扱いが容易で、貫く威力はより高かった。
◇
その頃、孟達の率いる工兵五百は渭水の上流に潜んでいた。
彼らは数日前から秘密裡に堰を築き、流れを制御していた。
粗末な木組みに土塁と石を積んだだけの堰ではあったが、増水期の渭水にとっては十分な変化を与えられる規模だった。
孟達は河辺に腰を下ろし、濁流をじっと見つめた。
「あと少しだ。合図を待て」
孟達の部下たちは杭を打ち込み、縄を結び、時に潜って石を組み直す。
泥と水飛沫にまみれながらも、動きは淀みなく速い。
彼によって掌握され鍛え上げられた工兵たちの動きは滑らかだった。
「敵が渡河に集中した時、一気に堰を崩す。急に流れが増せば、作りかけの仮橋は持たん」
やがて本陣より合図の狼煙が立ち上った。
孟達は木槌を受け取り、杭を打つ兵に合図した。
大きな音を立てて杭が外れ、堰の一部が崩れる。
押し止められていた水は一気に解放され、濁った波が轟音を立てて下流へと奔った。
◇
北岸で作業していた韓遂軍の仮橋が大きく揺れた。
兵たちは驚き、叫び、必死に縄を締め直そうとした。
だが濁流は丸太の隙間に入り込み、たちまち橋脚を傾ける。
橋上にいた数十人が足を滑らせ、次々に水へと投げ出された。
見ていた兵は青ざめ、恐怖が列全体に広がる。
仮橋の周囲に積まれていた物資の束も流され、浮き木が兵の足を叩き、さらに混乱を広げた。
「橋が、橋が落ちるぞ!」
叫び声が連鎖し、兵たちは我先にと後ろへ下がった。
その瞬間、またもや馬超隊の弓が火を噴いた。
退く兵の背に雨のような矢が降り注ぎ、混乱は収拾のつかぬものとなる。
馬岱が笑いながら声を張り上げた。
「奴らはもう恐慌だ!矢を惜しむな!」
韓遂軍は思いがけぬ二重の打撃に揺さぶられた。
河の流れという自然の恐怖と、頭上から絶えず降り注ぐ矢の圧迫。
その二つが重なった時、人の心は脆く砕ける。
兵たちは渡河を躊躇い、橋の前で立ち尽くし、あるいは叫びながら後退する。
部曲将がいくら怒鳴り叩こうとも、兵たちの脚は進まなかった。
兵の数は一万五千、しかし実際に前へ進める者はその半分にも満たなかった。
孟達は上流で水飛沫を浴びながら、主戦場の状況に思いを巡らせていた。
「さて、次の仕事に取り掛かるか」
彼は息を吐き、部下たちに次の準備を命じた。
◇
南岸の高台では、馬超が静かに目を細めた。
彼の顔に歓喜はなかった。
あるのは冷徹に戦の流れを俯瞰する目と、重く伸し掛かる責任感であった。
彼は龐徳に向かって短く告げた。
「敵はまだ渡りきれぬ。父上が来たら、勝負を決めるぞ」
龐徳は槍を鳴らし、荒々しく笑った。
「ならばこの間、矢で煮え立たせてやりましょう!」
太鼓が再び鳴り、矢が雨となった。
春の渭水は、戦を煽り立てる鐘のように轟き続けていた。
◇◇◇
濁流に橋を呑まれ、矢雨に列を削られた韓遂軍は、なおも渡河を強行しようとしていた。
将校の叱咤は怒号に近く、鼓が鳴り響き、兵の背を押した。
しかしその足は進まない。
足下の泥濘は深く、踏み出した途端に脚を奪い、冷たい水を吸った衣服と重い鎧は鉛のようにのしかかり体力を奪う。
前進を命じられた兵たちは、やむなく仮橋に押し寄せるが、先ほどの惨状を目の当たりにしたばかりで誰もが顔を引きつらせていた。
そこへ、さらなる惑乱が投げ込まれる。
南岸から数本の旗が現れ、音声が響いた。
「敵の援軍、すでに後方に迫る!」
法正が仕掛けた虚報である。
降兵に紛れ込ませた間者が、韓遂軍の内や外から偽の伝令として混乱の種を撒く。
さらに南岸の上流では、数百の焚火が川沿いに並べられていた。
昼間でも煙は遠目に見え、まるで別働隊の大陣が構築されているかのような錯覚を与える。
韓遂の斥候はそれを目にし、焦りを含んだ報告を上げた。
「西より別軍あり!挟撃の虞あり!」
韓遂は眉間に深い皺を寄せた。
彼は即座に否定しようとしたが、兵たちはすでにざわめき始めていた。
恐怖に囚われた兵は、耳に入る噂をすべて真実と思い込む。
虚報は事実をも侵食し、兵の心を乱すのだ。
「静まれ!敵は南岸に三千のみ、虚報に惑うな!」
韓遂が叫ぶ。
だがその声が士卒の隅々に届く前に、再び矢の雨が唸りを上げた。
韓遂軍は盾を掲げ、声を潜め、ただ密集して身を縮めるばかり。
誰も前に進もうとしなかった。
◇
一方、南岸の陣地では法正が煙を眺め、口元に冷ややかな笑みを浮かべていた。
「人は恐怖に二度は抗えぬ。水と矢で怯み、次は噂で立ち止まる。三度目は、崩れるだけだ」
姜叙が隣で苦い顔をした。
「だが、奴らは数において我らを凌ぐ。油断は禁物だ」
「承知している。だからこそ一刻、半刻でも多く削るのだ。時間こそ我らの味方」
その時、孟達の工兵が再び合図を送ってきた。
上流の堰はまだ半分残っており、次に解放すれば更なる増水が起きる。
法正はそれを見て頷き、時機を計った。
韓遂軍の渡河が再開されかけた瞬間を狙い、堰を落とす。
混乱は必ず極まる、と。
◇
午前も終わりに差し掛かる頃、韓遂軍はすでに千を超える兵を失っていた。
大軍の威容は、既に見せかけに過ぎなかった。
馬超は矢筒を交換しながら、淡々と戦況を見渡していた。
彼の瞳は冷たく冴え、勝ち誇る色はない。
ただ確かに、相手が自滅に向かって歩んでいるのを感じていた。
「まだ将軍は戻らぬか」
龐徳が尋ねると、馬岱が伝令を戻しながら応えた。
「伝令によれば、すでに半日の行程を戻っているとの由。間もなく南西から現れるはずです」
「ならばよい」
馬超は弓を肩に掛け、空を見上げた。
雲は流れ、陽は高く昇っている。
午後には馬騰の軍勢が迫るだろう。
その時までに敵を足止めできれば、この戦は勝ち切れる。
法正は静かに馬超の傍へ歩み寄り、小声で告げた。
「兵の動き、見えますか。もはや過半は戦意を失っております。矢を惜しむ必要はございません。今はただ、焦らず時を削りましょう」
馬超は無言で頷いた。
矢は尽きぬ限り放ち続ける。
矢羽の擦れる音が戦場を覆い、濁流の轟音と重なり、韓遂軍の心を削っていく。
こうして午前の戦は過ぎ去った。
韓遂軍は渡河に失敗し、千の兵を失い、さらに数割が戦闘不能に追い込まれた。
仮橋は崩れ、浅瀬は偽旗に惑わされ、士気は落ちる一方。
対する馬超の部隊は、矢を費やしはしたが、ほとんど損害を受けていない。
──これが、戦いの第一幕であった。
渭水 黄河の支流の一つ。山海経にも名前の見える鳥鼠山を源流とし、関中を貫き潼関のあたりで黄河と合流する。その豊かな水量はこの地域の農耕と物流を支え、古来よりその流域には豊邑、鎬京、咸陽、長安といった王朝の都が作られてきた。渭水の戦いと言えば正史では建安16年(211年)の馬超・韓遂連合軍と曹操軍の戦いを指す。




