風雲
短めです
建安元年(196年) 春1月
年が明け暦の上では春となったが、近ごろの涼州の春の訪れは遅い。
冬の雪が未だ地の端に残り、冷たい風が枹罕の城壁を吹き抜けていた。
灰色の空の下、韓遂の居館には火鉢の熱が漂い、幕僚たちが呼び集められている。
密偵が膝を折り、息を切らしながら報告を告げた。
「報せにございます!馬騰、正月の初めより一万の兵を率い、隴西へと進軍を開始しました!」
その言葉に、室内の空気が一気に張り詰めた。
韓遂は立ち上がり、目をぎらつかせて机を拳で叩く。
「寿成が動いたか……!まさか宋建を狙うとはな」
すぐさま成公英が一歩進み出た。
「将軍、これは好機にございます。馬騰が宋建を攻めるなら、漢陽は手薄となりましょう。元より渭水以北は守りも薄い。いま一気に攻め入れば、冀を落とせましょう」
閻行は腕を組み、冷めた目で密偵を一瞥した。
「しかし……この報せ、確かなのでしょうな。わざと我らを誘うための虚かもしれぬ」
韓遂は眉をひそめ、成公英と閻行を睨み比べた。
「虚か真かは、もはや些末。寿成が兵を動かしたのは事実だ。宋建を討つにせよ、我らに矛を向けるにせよ、奴は動いた。向こうが動いた以上、こちらも動かねば後れを取る」
閻行が唇を歪めた。
「軽挙すれば罠にかかるやもしれませぬぞ」
「黙れ!」
韓遂が怒声をあげた。
「儂の判断を疑うか?敵を恐れるか?いずれにせよ臆病風に吹かれた戯言よ!」
叱責を受けて閻行の眉間に険が寄る。
だが取り成すように成公英が声を重ねた。
「彦明殿の言も一理あります。しかし……いまここで動かねば、我らの威は地に落ちます。宋建が討たれれば、馬騰は隴西を手に入れる。金城も狙われるでしょう。先んじて漢陽を衝き、冀を奪えば、形勢は逆になります」
韓遂は低く笑った。
「そうだ…!待っていれば奴らに呑まれるだけ。儂は座して死を待つつもりはない」
◇
韓遂は机上に地図を広げ、墨を指でなぞる。
「まず兵は一万二千、うち九千を儂が率いる。金城の兵をほぼ連れていくことになるが…仲俊、お前に留守を任せる」
成公英は力強く膝をつき、声を張った。
「はっ、後背はお任せください!」
「彦明、お前は別部三千を率いて先鋒を務めよ。先般の失態を取り戻せ」
韓遂の声が厳しく響いた。
閻行はすぐに膝を折り、深く頭を垂れる。
その顔には一瞬、苦さと共に血が滲むような決意が浮かんだ。
「はっ!必ずや功を立て、信を取り戻してみせましょう」
だがその瞳の奥には、ただの従順だけではないものが潜んでいた。
失われかけた主の信頼を取り戻すための焦り、そして己の立場を固めようとする野心が。
韓遂は最後に、士卒を見渡す。
「よし、出撃は三日後だ。各自、糧と武具を検めておけ。冀を奪い、寿成の勢力を削ぎ落すのだ」
その言葉に、幾人かから喚声が上がる。
闘志を喚び起こす音、甲冑の擦れる音———幕舎はただならぬ熱気に包まれていた。
◇
翌日、出陣の準備をはじめた軍営から一人の兵が抜け出して南へと奔った。
法正が潜り込ませていた間者の一人である。
そのまま早馬を継いで急ぎ冀へと情報がもたらされる。
「令君、韓遂めが動いたようです」
伝令から知らせを受け取った法正が馬超へと報告を挙げる。
「北の城邑への命令は整っているか」
「手筈通り、万事ぬかりなく」
金城から冀への途中にある各県からは県令が兵を率いて馬騰とともに隴西へと向かい、備蓄もほとんど残していないので韓遂の侵攻に呼応して敢えて降伏するように申し伝えてあった。
漢陽の民草に余計な被害を出したくないというのもある。
韓遂軍は各県からなけなしの兵と糧食を徴発せざるを得ずにむしろ負担を背負い、そしてその兵の中に間者を紛れさせることも策の一つであった。
「ここが正念場だ。斥候を放ち韓遂の軍の動きを探らせる。また子敬の工兵を中心に、県の兵も駆り出して陣を築かせろ」
「承知いたしました」
かくして渭水を挟んでの大戦へと、両者は歩を進める。
一方は勝機を掴まんと意気盛んに、他方は計を胸に静かに網を張り巡らせる。
冬を越えた涼州の大地は、やがて鉄と血の匂いに包まれようとしていた。
成公英 字は不明(作中では仲俊と設定)生年不明。金城郡の人。成公が姓で英が諱。この頃は二字名は特に忌避された時代なので二字名っぽく見える人も基本的には二字姓か姓と字で記されているか異民族かのどれかに該当する。韓遂と同郷の腹心で苦境の韓遂から部下が離れていく中で最後まで忠節を尽くした。韓遂が亡くなると曹操に降伏し、軍師や参軍として用いられた。




