離間
夜の冀の政庁は、昼間の喧騒が嘘のように静まっていた。
篝火の揺れが壁に映り、墨の匂いが漂う。
馬超は机の上に並べられた竹簡を前に、腕を組んでいた。
向かいに座る法正は、いつものように落ち着いた目をしている。
「……宋建の勢力は羌、氐、そして漢人の雑多な寄せ集め。『河首平漢王』を名乗り、百官を置いているが、実態は烏合の衆にすぎません」
「我らもあまり人のことは言えぬがな」
法正は淡々と口を開く。その声には冷静さと同時に、どこか鋭い刃のような響きがあった。
馬超は顎に手をやり、記憶を呼び起こすように呟く。
「羌の頭目たちは宋建に従ってはいるが、利に聡く腹の底までは繋がっていない。血が異なる氐は猶更だ。漢人の官吏は……自らの位を守るために従っているだけか」
「ええ。だからこそ、揺さぶればすぐに割れる。人は血筋や旗に縛られているようで、実際には利によって動かされるものです」
「それと恐怖、だな」
法正は薄く笑みを浮かべ、机の端に積まれた名簿に手を置いた。
竹簡には、捕虜や密偵から得た情報を整理した名が連なっている。
「主を恨む者は放っておいても増える。火だけ置いて帰ればいい」
その言葉に、馬超は眉をひそめた。
「だが、火を置きすぎれば燃え広がりすぎる。宋建を倒す前に羌や氐全体を敵に回すのは避けたい」
「もちろんです。だからこそ揺さぶるだけに留めるのです。利を少し渡せば、あとは自分から寄ってくる。人はそういうものです」
◇
二人は名簿を開き、一人ひとりを確認していった。
灯の下で、竹簡の文字が黒々と浮かび上がる。
「まずは羌の大将軍、阿咸。宋建のもとに最初に従った男ですが、兵糧の不足を理由にしばしば不満を口にしている。宋建が酒を好み、宴を開いては兵糧を浪費することを恨んでいるようです」
「……兵を飢えさせる主に忠は向けられぬ」
馬超は短く言った。
法正は頷き、次の名を示す。
「氐の軍司馬、王石。若く血気盛ん。宋建から十分な官位を与えられず、不満を募らせている。『なぜ自分がただの軍司馬止まりで、惰弱な漢人が中郎将なのか』と」
「力を頼みにする胡人は序列を間違えれば、すぐに牙を剥く……宋建は漢制に親しみ倣うあまり本分を忘れたか」
「ええ。次に漢人の丞相、劉佑。実のところ羌を軽んじ、心底では服していません。機会さえあれば漢人のために動くでしょう」
馬超はしばし黙し、灯を見つめた。
名簿に並ぶ名はどれも乱世に翻弄される人々だ。
利用すべきだと頭では理解しても、心のどこかで重さが残る。
「令君」
法正の声が、思考を断ち切った。
「人は腹が決まれば動く。言葉よりやり方です。密書で揺さぶり、疑いを置けば、あとは勝手に仲が割れる。剣で斬るよりはるかに血が少なくて済む。勝つためには情より理です。令君が兵を担い、私が謀を担う。そのために私を招いたのでしょう」
◇
法正は筆を取り、硯に墨を含ませた。
筆先が竹簡の上を走るたび、夜の空気に墨の香りが広がる。
「まずは誘いの密書。阿咸には『兵糧を確保できぬ主に未来はない。馬家は穀物と飼料を持つ。今従えば将来を保障する』と」
さらさらと文字が並ぶ。
「次に利の密書。王石には『位は与えられるべき者に与えられる。宋建は耳が遠いが、馬家は才を重んずる』と」
そして筆を止め、薄く笑う。
「最後は疑の密書。これは宋建の手に渡るよう仕掛ける。『丞相劉佑は内心で漢を望み、馬家は朝廷に取り成す』――こう書けば、宋建は疑心に駆られ、必ず部下を詰問する」
馬超は息を呑んだ。
「わざと見せるための密書、か」
「はい。疑いをひとつ置けば、仲は勝手に割れます。結束は紙より脆い」
法正の筆先は止まらない。
墨は静かに吸い込み、竹簡は次々に黒で埋まっていった。
やがて三種の密書が揃う。
机の上に並べられたそれは、夜の灯の下で不気味に輝いて見えた。
馬超は黙ってそれを見つめた。
乱世の戦は剣と矢だけではない――そう思い知らされる夜だった。
◇◇◇
数日後、冀を出た密使たちが三方へ散った。
阿咸、王石、そして劉佑――それぞれに宛てられた密書は夜陰に紛れて届けられ、やがて宋建の陣営に不気味な波紋を広げていく。
羌の大将軍、阿咸の陣営。
威名は立派だが枹罕では千の手勢を率いる頭目に過ぎない。
今も城門の守衛の任に駆り出されていた。
焚き火の前で兵たちが羊肉の欠片を入れた薄い粟粥をすすっていた。
外を巡回していた兵が戻り、不意に懐から小さな竹簡を取り出す。
「西から来たやつが、これを」
阿咸の目に差し出されたそれには、墨痕がまだ新しい文字が並んでいた。
『兵糧を欠き、飢えに沈む主は民と兵を導けぬ。馬家は倉を満たす。今帰順すれば、将来は保障されよう』
阿咸は読み終えると、思わず膝に力を込めた。
兵たちが彼の顔を窺う。
沈黙ののち、阿咸は竹簡を焚き火へ投げ入れた。
火が文字を呑み込み、煙が夜空へと昇る。
しかし、その煙は彼の胸にくすぶる疑念を消すことはできなかった。
「……宋建は宴を好みすぎる。俺たちは餓えているというのに」
誰に言うでもなく洩らした言葉を、兵たちは黙って聞き流した。
だが、その小さな一言がすでに心の隙を広げていた。
◇
氐の族長、王石の幕舎では、血気盛んな若者たちが武具を磨いていた。
王石のもとへ届けられた密書には、こう記されている。
『才ある者に位を与えるのが道理。馬家は才を重んじ、宋建は耳を貸さぬ。己の力を試すならば、従う先を誤るな』
王石は読みながら、拳を固く握りしめた。
天幕の外には宋建の旗が翻っている。
昨年父が死んで後を継いだものの、若さゆえに侮られていると感じる事が多かった。
自らの位が低いことへの不満は日々膨らんでいた。
家臣が心配そうに声をかける。
「大人、どうされました」
「……いや、何でもない」
白石は竹簡を衣の下に隠し、無理に笑った。
だがその夜、彼は眠れずに天幕の柱を叩き続けた。
氏族の安定と己の野心、その二つが胸の中で激しくせめぎ合っていた。
◇
そして最後の密書。
これは巧みに巡り、宋建自身の手に渡るよう仕組まれていた。
宛名は劉佑。そこにはこうある。
『丞相殿は内心で漢を望んでいるとか。馬家は朝廷に取り成す用意あり。証左は後日送る』
宋建は竹簡を読み、顔色を変えた。
すぐに丞相の屋敷に人を遣わし、劉佑を政庁に呼び出す。
広間に集められた諸将の前で、宋建は怒声を張り上げた。
「劉佑!貴様、漢に通じているのではあるまいな!」
突然の詰問に、劉佑は蒼白になり、慌てて否定した。
「そ、そのようなこと、断じてございません!」
しかし、諸将は互いに目を見交わす。
疑念の影は言葉では払えない。宋建の視線は鋭く、場に重い沈黙が落ちた。
阿咸や王石もまた、その場に居合わせ、心中でそれぞれの密書を思い出していた。
誰もが「次は自分か」と震えた。
◇
その夜、宋建は酒を煽りながら腹心に愚痴をこぼした。
「誰を信じればよい……!羌も氐も、漢人どもも……皆、裏切る気か」
腹心は慰める言葉を探したが、主の瞳はすでに疑心に曇っていた。
翌日から宋建は配下の頭目や官吏たちを次々と呼び出し、尋問を始めた。
竹簡のことは伏せたが、言葉の端々に疑いが滲む。
「阿咸、お前の陣営は蓄えを隠しているのではないか」
「王石、お前の若者たちは妙に気勢を挙げているではないか」
「劉佑、お前は誰と文を交わしている」
問い詰められるたび、配下たちの心は少しずつ離れていく。
兵の間には噂が広がり、互いに視線を交わすたびに不安が募った。
◇
冀の政庁で間者からの報告を受けた法正は、竹簡を閉じて小さく笑った。
「……人は疑いをかけられると、それだけで結束が崩れる。狙い通りです」
馬超は黙って頷いた。
「疑いをひとつ置けば、仲は勝手に割れる。これで宋建の陣営はもはや鉄ではなく、乾いた枝です。次に火を点ければ、簡単に崩れます」
夜の燈火が揺れる。
馬超は目を閉じ、深く息を吐いた。
(……これもまた、勝つために必要な道か)
自分が命じた事ではあるが、肚にずしりと重みが落ちる。
こうして宋建の陣営には見えぬ裂け目が走り、結束は確実に崩れていった。
阿咸・王石・劉佑 宋建の配下。いずれも架空の人物。




