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離間

夜の()の政庁は、昼間の喧騒が嘘のように静まっていた。

篝火(かがりび)の揺れが壁に映り、墨の匂いが漂う。

馬超(ばちょう)は机の上に並べられた竹簡を前に、腕を組んでいた。

向かいに座る法正(ほうせい)は、いつものように落ち着いた目をしている。


「……宋建(そうけん)の勢力は(きょう)(てい)、そして漢人の雑多な寄せ集め。『河首平漢王(かしゅへいかんおう)』を名乗り、百官を置いているが、実態は烏合の衆にすぎません」

「我らもあまり人のことは言えぬがな」


法正は淡々と口を開く。その声には冷静さと同時に、どこか鋭い刃のような響きがあった。

馬超は顎に手をやり、記憶を呼び起こすように呟く。


「羌の頭目たちは宋建に従ってはいるが、利に聡く腹の底までは繋がっていない。血が異なる氐は猶更だ。漢人の官吏は……自らの位を守るために従っているだけか」

「ええ。だからこそ、揺さぶればすぐに割れる。人は血筋や旗に縛られているようで、実際には利によって動かされるものです」

「それと恐怖、だな」


法正は薄く笑みを浮かべ、机の端に積まれた名簿に手を置いた。

竹簡には、捕虜や密偵から得た情報を整理した名が連なっている。


「主を恨む者は放っておいても増える。火だけ置いて帰ればいい」


その言葉に、馬超は眉をひそめた。


「だが、火を置きすぎれば燃え広がりすぎる。宋建を倒す前に羌や氐全体を敵に回すのは避けたい」

「もちろんです。だからこそ揺さぶるだけに留めるのです。利を少し渡せば、あとは自分から寄ってくる。人はそういうものです」



二人は名簿を開き、一人ひとりを確認していった。

灯の下で、竹簡の文字が黒々と浮かび上がる。


「まずは羌の大将軍、阿咸(あかん)。宋建のもとに最初に従った男ですが、兵糧の不足を理由にしばしば不満を口にしている。宋建が酒を好み、宴を開いては兵糧を浪費することを恨んでいるようです」

「……兵を飢えさせる主に忠は向けられぬ」


馬超は短く言った。

法正は頷き、次の名を示す。


「氐の軍司馬、王石(おうせき)。若く血気盛ん。宋建から十分な官位を与えられず、不満を募らせている。『なぜ自分がただの軍司馬(ぐんしば)止まりで、惰弱な漢人が中郎将なのか』と」

「力を頼みにする胡人(こひと)は序列を間違えれば、すぐに牙を剥く……宋建は漢制に親しみ(なら)うあまり本分を忘れたか」

「ええ。次に漢人の丞相(じょうしょう)劉佑(りゅうゆう)。実のところ羌を軽んじ、心底では服していません。機会さえあれば漢人のために動くでしょう」


馬超はしばし黙し、灯を見つめた。

名簿に並ぶ名はどれも乱世に翻弄される人々だ。

利用すべきだと頭では理解しても、心のどこかで重さが残る。


令君(馬超)


法正の声が、思考を断ち切った。


「人は腹が決まれば動く。言葉よりやり方です。密書で揺さぶり、疑いを置けば、あとは勝手に仲が割れる。剣で斬るよりはるかに血が少なくて済む。勝つためには情より理です。令君が兵を担い、私が謀を担う。そのために私を招いたのでしょう」



法正は筆を取り、硯に墨を含ませた。

筆先が竹簡の上を走るたび、夜の空気に墨の香りが広がる。


「まずは誘いの密書。阿咸には『兵糧を確保できぬ主に未来はない。馬家は穀物と飼料を持つ。今従えば将来を保障する』と」


さらさらと文字が並ぶ。


「次に利の密書。王石には『位は与えられるべき者に与えられる。宋建は耳が遠いが、馬家は才を重んずる』と」


そして筆を止め、薄く笑う。


「最後は疑の密書。これは宋建の手に渡るよう仕掛ける。『丞相劉佑は内心で漢を望み、馬家は朝廷に取り成す』――こう書けば、宋建は疑心に駆られ、必ず部下を詰問する」


馬超は息を呑んだ。


「わざと見せるための密書、か」

「はい。疑いをひとつ置けば、仲は勝手に割れます。結束は紙より脆い」


法正の筆先は止まらない。

墨は静かに吸い込み、竹簡は次々に黒で埋まっていった。

やがて三種の密書が揃う。

机の上に並べられたそれは、夜の灯の下で不気味に輝いて見えた。


馬超は黙ってそれを見つめた。

乱世の戦は剣と矢だけではない――そう思い知らされる夜だった。


◇◇◇


数日後、冀を出た密使たちが三方へ散った。

阿咸、王石、そして劉佑――それぞれに宛てられた密書は夜陰に紛れて届けられ、やがて宋建の陣営に不気味な波紋を広げていく。


羌の大将軍、阿咸の陣営。

威名は立派だが枹罕(ほうかん)では千の手勢を率いる頭目に過ぎない。

今も城門の守衛の任に駆り出されていた。


焚き火の前で兵たちが羊肉の欠片を入れた薄い粟粥(あわがゆ)をすすっていた。

外を巡回していた兵が戻り、不意に懐から小さな竹簡を取り出す。


「西から来たやつが、これを」


阿咸の目に差し出されたそれには、墨痕がまだ新しい文字が並んでいた。


『兵糧を欠き、飢えに沈む主は民と兵を導けぬ。馬家は倉を満たす。今帰順すれば、将来は保障されよう』


阿咸は読み終えると、思わず膝に力を込めた。

兵たちが彼の顔を窺う。

沈黙ののち、阿咸は竹簡を焚き火へ投げ入れた。

火が文字を呑み込み、煙が夜空へと昇る。

しかし、その煙は彼の胸にくすぶる疑念を消すことはできなかった。


「……宋建は宴を好みすぎる。俺たちは餓えているというのに」


誰に言うでもなく洩らした言葉を、兵たちは黙って聞き流した。

だが、その小さな一言がすでに心の隙を広げていた。



氐の族長、王石の幕舎では、血気盛んな若者たちが武具を磨いていた。

王石のもとへ届けられた密書には、こう記されている。


『才ある者に位を与えるのが道理。馬家は才を重んじ、宋建は耳を貸さぬ。己の力を試すならば、従う先を誤るな』


王石は読みながら、拳を固く握りしめた。

天幕の外には宋建の旗が翻っている。


昨年父が死んで後を継いだものの、若さゆえに侮られていると感じる事が多かった。

自らの位が低いことへの不満は日々膨らんでいた。

家臣が心配そうに声をかける。


大人(たいじん)、どうされました」

「……いや、何でもない」


白石は竹簡を衣の下に隠し、無理に笑った。

だがその夜、彼は眠れずに天幕の柱を叩き続けた。

氏族の安定と己の野心、その二つが胸の中で激しくせめぎ合っていた。



そして最後の密書。

これは巧みに巡り、宋建自身の手に渡るよう仕組まれていた。

宛名は劉佑。そこにはこうある。


『丞相殿は内心で漢を望んでいるとか。馬家は朝廷に取り成す用意あり。証左は後日送る』


宋建は竹簡を読み、顔色を変えた。

すぐに丞相の屋敷に人を遣わし、劉佑を政庁に呼び出す。

広間に集められた諸将の前で、宋建は怒声を張り上げた。


「劉佑!貴様、漢に通じているのではあるまいな!」


突然の詰問に、劉佑は蒼白になり、慌てて否定した。


「そ、そのようなこと、断じてございません!」


しかし、諸将は互いに目を見交わす。

疑念の影は言葉では払えない。宋建の視線は鋭く、場に重い沈黙が落ちた。

阿咸や王石もまた、その場に居合わせ、心中でそれぞれの密書を思い出していた。

誰もが「次は自分か」と震えた。



その夜、宋建は酒を煽りながら腹心に愚痴をこぼした。


「誰を信じればよい……!羌も氐も、漢人どもも……皆、裏切る気か」


腹心は慰める言葉を探したが、主の瞳はすでに疑心に曇っていた。

翌日から宋建は配下の頭目や官吏たちを次々と呼び出し、尋問を始めた。

竹簡のことは伏せたが、言葉の端々に疑いが滲む。


「阿咸、お前の陣営は蓄えを隠しているのではないか」

「王石、お前の若者たちは妙に気勢を挙げているではないか」

「劉佑、お前は誰と文を交わしている」


問い詰められるたび、配下たちの心は少しずつ離れていく。

兵の間には噂が広がり、互いに視線を交わすたびに不安が募った。



冀の政庁で間者からの報告を受けた法正は、竹簡を閉じて小さく笑った。


「……人は疑いをかけられると、それだけで結束が崩れる。狙い通りです」


馬超は黙って頷いた。


「疑いをひとつ置けば、仲は勝手に割れる。これで宋建の陣営はもはや鉄ではなく、乾いた枝です。次に火を点ければ、簡単に崩れます」


夜の燈火が揺れる。

馬超は目を閉じ、深く息を吐いた。


(……これもまた、勝つために必要な道か)


自分が命じた事ではあるが、肚にずしりと重みが落ちる。

こうして宋建の陣営には見えぬ裂け目が走り、結束は確実に崩れていった。


阿咸・王石・劉佑 宋建の配下。いずれも架空の人物。

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