伏波兵法論
遅くなりました。
内容はまあ…基本的な事しか書いてないはず。雰囲気なので途中は読み流してもらっても大丈夫です。
興平二年 秋八月。
秋も深まって涼州の空気は冷え込み、窓際の竹簾が乾いた音で擦れた。
冀の政庁、県令の間に呼び出された孟達と法正が連れ立って現れた。
机上の決裁の草稿を左右に寄せると、馬超は本を二冊、静かに置いた。
いまだ貴重な紙で綴られた本であった。
黒の表紙、中央に端正な隷書の五字――「伏波兵法論」と書かれていた。
(……もとは俺の記憶にある近現代の戦略・戦術論の粗い覚え書きに過ぎなかった。政務の合間に走り書きした断章、寝物語の代わりに語った断片。理屈はあっても見栄えが悪い、そういう文だった。それが琰の手にかかって兵家・法家を踏まえて再構成され、言葉を選び直したらなんと格調高く見事のものに生まれ変わったか。内容は同じでも、修辞が備わればこうも違う)
「――子敬、孝直。冀での仕事はどうか」
呼び入れられた孟達と法正が一礼する。
「任を頂き二月あまり。ようやく慣れてきたところです。私の部下は漢人ばかりですが、羌や氐も接してみれば変わらぬものと感じております。恥ずかしながら三輔に居た頃は奪うばかりの蛮夷と思っておりましたが、令君に誘われて狭い世から足を踏み出し、蒙い眼が啓かれた思いです」
孟達の弁は美しい。見事な風采も相まってまさしく巧言令色といった感だ。
その魅力と弁舌を以って部下たちの心を掌握しつつあると聞いている。
「なかなか遣り甲斐のある役と存じます。兵や民たちの間に混じる耳、ですか。今はまだ仕込みの段階ですが、いずれ蜘蛛の巣のように張り巡らせてみせましょう」
法正の言は鋭い。本質を見極め、先を見通すその智術は上にとっても下にとっても薬にも毒にもなりうる可能性を秘めている。
これを上手く処方してやるのが己の役割だと改めて認識する。
「これを。俺の祖先、伏波将軍の遺した兵書らしい。俺も存在を知らなかったが、蔡伯喈様の蔵書に紛れていたものを文姫が写してくれた」
二人に一冊ずつ渡す。紙の重みが掌でわずかに鳴った。
「目次を見よ」
孟達が素早く目を走らせる。
「『帝略篇』『軍略篇』『戦術篇』……章頭に要、章末に解。現場で引けますな」
法正は小さく頷いた。
「凡例が明快です。引用と事例が分かれ、判断の枠が先に置かれている」
馬超は頷き、頁を開かせながら要を示す。
「帝略は君主の描く天下の図だ。政略―誰を敵とし、誰を味方とするか。経略―穀物、金銭、工物、商流をどう整えるか。民略―民をどう従わせ、どう治めるか。知略―情と知をどう蓄え、活かすか。宗略―いかに大義を示し、名分を著すか。さらに天・地・人と七つの理に則るべし、と」
「ふむ…孫子に通じますな。」
馬超の要約に法正が承けて頷く。
「軍略は将が実際に地に落とす場合の計りごとだ。帝略をいかに成すか、戦域をいかに決めるか、敵をいかに討つか、兵と民をいかに保たせるか。人も食も資もどうしても限りがある。どこに集め、どこに散らし、どこを先にし、どこを後にするか。それらを見極めるには情知も必要となる。時には盟を、時には従を、時には分を、時には断を。どう守り、どう攻めるか。将はそれらを総覧しなければならない」
「図国・治兵・料敵・応変・論将…呉起を思い出します」
紙面に目を落としながら孟達が呟いた。
「戦術はさらに具体的にどのような形とするか。時・地・資・計の四つを以って設え、準備・先制・主攻・占領・維持の五つを以って区切り、勝と敗を分け、層と深を測り、機動・転換・連携・虚実を用い、終いはどう退くか」
馬超は頁をめくり、トントンと指で叩き示す。
「陣法は兵科・編制・陣形・行軍の範を系と化し、戦場で機に臨み変に応じる規矩を定める。射・突の間合いを測り、奇襲・夜戦の条件を整え、陣営と警戒を備え、合図と伝令を検め、これらを結ぶため練を熟す」
二人は論に耳を傾けながら黙して文字を追っていく。
「器法はすなわち戦を支えるために兵の站を築き、食と器を蓄え、損い失った資を補い給う。府庫を算し、確かに戦陣に輸し、腐と盗を防ぎ、寸を統して製と修を易とし、録し残して後に査べ監る。守城・攻城の器を造り、路・橋・柵・濠を建て、医と薬にて傷病を治し、節季・寒暖を慮り用いるべし」
「食わねば人は動けぬ。武器が無ければ兵は戦えぬ。道が無ければ歩けぬし、城塞が無ければ守れぬ。どれも大切なことですな」
孟達が低く唸り、感嘆の声を上げた。
「謀法は—情を報せ、心を攻め、外を交え、内を乱れしめて戦わずして勝つ。目・耳・舌を延ばして間を用い、網を張り巡らせ、虚実を量り、離間と同化を誘い、兵の気を襲い、民の心を奪い、敵の謀は塞ぐ」
「謀攻、虚実、用間…これも孫子の述べるところをまとめ、より洗練させているように見えます」
法正は大いに得心し、熱心に紙上をなぞっていく。
「特に子敬は器法を善く学び、孝直は謀法を盛んに取り入れよ」
二人が同時に「承知」と応える。
「任も改めて告げる。子敬は道と橋を整え、荒れた亭を復せ。資材は太守に上表し郡県から供出させる」
「はっ!身命を賭します」
孟達は両拳をつき、低く答えた。
「孝直は引き続き耳目を延ばしながら、羌を用いて隴西にも舌を刺せ。狙いはわかるな?」
法正は冊を閉じ、静かに頭を下げた。
「拝命いたしました。……枹罕を内から崩して見せましょう」
馬超は二人の視線を受け止め、最後の芯を打ち込む。
「善し。乱を鎮め涼州を一統するぞ」
「はっ!」
「必ずや」
政庁の戸口から、冷えた風が短くのぞいた。
干した麦束が軒で小さく鳴る。
二人は同時に拱手し、姿勢を正した。
冊の五字が、秋の光を受けて薄く光る。
(紙はただの紙。息を入れるのは人だ。――だが、鍛えの通った紙は、人の手を導く)
「俺も君達も、いずれ将帥となり公卿となろう。その時に智は財となる」
「ふふ、剛毅なものですな」
「それでこそ就いた甲斐があったというもの」
二人が笑いながら冊を胸に収める。
涼州の秋は短い、だからこそ急ぐ。
だが、慌てはしない。
種は春に芽吹けば良い。
理は紙に写し、術は口に移し、人に渡る。
勝ち方は、既にここにあった。
馬援 字は文淵。紀元前14年生まれ。右扶風茂陵の人。後漢の伏波将軍。馬騰や馬超らの祖先。後に伏波将軍に就任した者も何人かいる(陳登とか夏侯惇とか)が、単に伏波将軍と言えば馬援、馬援と言えば伏波将軍というくらい伏波将軍が代名詞の伏波将軍中の伏波将軍。最初新の役人となり、新が滅びると隴西の隗囂に従ったが、使者として訪ねた光武帝に気に入られ、隗囂を説得して帰順した。隗囂は後に光武帝と対立したが馬援はそのまま仕え、隗囂の病死後に残党を狩ったり南越の徴姉妹の乱を平定したり老人になってからも武陵の五渓蛮(今のミャオ族。三国志では沙摩柯が有名)の討伐に従事して暑さにやられて亡くなったりした。死後は讒言されて光武帝に激怒されて封侯を没収されたり光武帝を助けた功臣を描いた雲台二十八将に選ばれなかったりそれを問いただされた明帝が笑って誤魔化したりと割と散々な扱いをされた。娘が明帝の皇后となっていたので外戚の権勢を抑制するという方針だったのだろう。
孫子 本名不明。字は子武とも長卿とも。生年不明(だいたい紀元前530年くらい)。春秋時代の斉の人。伍子胥に推挙されて呉王闔閭に仕えたとされる。実在が疑われたこともあったが一応いたっぽい人物。ある意味もっとも有名な兵法家。現代ですら軍事面やビジネス面で研究対象になるくらいすごい兵法書「孫子」を残した。読んでみると割と面白いので読んでみて欲しい。クラウゼヴィッツの戦争論とかすごい読むのが苦痛なのと大違いなので。
呉起 字不明。紀元前440年頃の生まれ。戦国時代の衛の左氏の人。先述の孫子と並べて「孫・呉」と称されるくらいの兵家の代表的人物。最初儒家を学んだが親の葬儀に帰らなかったので破門された。帰らなかった理由が故郷で無職を馬鹿にしたやつをぶっ殺してたので気まずかったとかいう割とヤバいやつ。魯とか魏とかに仕えて結果は出したが色々と嫌われることもやらかしてたので結局亡命する羽目になった。最後は楚で宰相にまで昇ったがここでも強引な改革手法が災いして後ろ盾になっていた悼王が死ぬと暗殺された。
令君 県令とかに対する尊称。三公には明公、刺史には使君、太守には府君とか明府とかがある。三国志で令君と言えば荀令君こと尚書令荀彧が有名。




