父と子
天幕の外のざわめきが一層大きくなり、やがて兵が帳を開いた。
姿を現したのは、甲冑に身を固めた壮年の将。険しい眉と精悍な面差しに、ただ立つだけで周囲を圧する威厳があった。
「父上……」
自然に声が漏れる。
馬騰、字は寿成。馬超の父である。
中平年間(184年~189年)、黄巾の乱が収まりつつあった頃に涼州で起きた氐や羌といった夷狄および巻き込まれた漢人による反乱の折に兵として志願して頭角を顕し、その後に反乱勢力に転じた梟雄である。
朝廷の混乱のさなか董卓やその後を継いだ李傕・郭汜といった涼州軍閥が政権を握ると彼らに接近して官位を得て勢力を拡大させてきた。
現在は李傕らと袂を分かち涼州へ戻り、本来の太守が逃げ出した漢陽郡を占拠して支配していた。
正式な官位は李傕が送って来た安狄将軍で、漢陽太守は政庁に残された印綬を用いての自称である。
馬騰は一歩、また一歩と近づき、寝台の傍らに立った。
「超。目を覚ましたか」
低く重い声。その眼差しには怒気とも心配ともつかぬ光が宿っている。
馬超は息を呑み、思わず頭を垂れた。
「……申し訳ありませぬ。閻行ごときに不覚を取り、このような姿をさらしてしまいました」
馬騰の表情は動かない。しばしの沈黙ののち、短く言い放った。
「勝敗は兵家の常。ただし、不覚を恥じて次に備えることを忘れるな」
「はい。次こそは、必ずや武を示してみせます」
そう答えながら、馬超は内心で歯を食いしばる。
(次こそは……武だけじゃない。俺の知識で、この軍を変えてみせる)
父の視線がなおも鋭く突き刺さる。だがそれを真正面から受け止め、深くうなずいた。
「超、そなたは我が嫡子だ。軍の将も兵も皆そなたを見ておる。軽々しく倒れてはならぬぞ」
「肝に銘じます」
やがて馬騰は袖を翻し、再び天幕を後にした。
その背中は広く、同時に、どこか冷ややかでもあった。
(……父は俺を試している。なら応えてみせるしかない。今度こそ、失敗は許されない)
涼州 だいたい今の甘粛省のあたり。州治所は漢陽郡隴県。いわゆるシルクロードの玄関口で西域経営の要衝だがモンゴル系・テュルク系・チベット系・イラン系などの各種遊牧系異民族も入り乱れ不安定な土地でもあった。それゆえ後漢の朝廷ではたびたび涼州放棄論が唱えられていた。興平元年(194年)に河西四郡(敦煌・酒泉・張掖・武威)を分けて雍州が設置されている。
漢陽郡 今の天水市のあたり。郡治所は冀県。西に金城郡・隴西郡、北に武威郡・安定郡、南に武都郡、東に三輔(長安周辺)と接する。金城・隴西と合わせて隴右とも呼ばれる。地図を見ると隴の左側じゃんって思ってしまうがこの頃の中国では南を向いて右を西、左を東としたことによる。時期によって天水郡だったり漢陽郡だったり割と名前が変わる。本来はこの頃、漢陽郡から分けて永陽郡とか南安郡が作られたりしているがややこしいので作中では割愛。
羌 古代から名前が見えるチベット系遊牧民族。現代でもチャン族として知られる。漢代の羌は西戎(犬戎)の後裔と言われており、殷代の羌と同一かは不明。漢では西羌と呼ばれ反乱を起こした。五胡十六国時代に至っては後秦を建国したりした。
氐 元は青海湖周辺で活動していた遊牧民族でチベット系と言われる。漢人から見ると文化・習俗・言語などは羌とあまり変わらなかったようなのでどう区別されていたのかよくわからない。周代の巴(現代の四川省・漢代の益州にあった国)は氐人の国と言われている。五胡十六国時代には成漢・前秦・後涼などを立てた。
董卓 字は仲頴。139年生まれ。隴西郡臨洮の人。言わずと知れた三国志序盤の大悪役。活躍を見るに戦争も政略もなかなか有能だったようだが、何進暗殺の混乱時に武力を背景に朝政を壟断したはいいものの調子に乗って皇帝の廃立を行って人心を失い五銖銭の改鋳で経済を混乱させ洛陽を焼き払って長安に遷都し最後は王允や呂布といった非涼州系の部下に裏切られて殺された。序盤の悪いことは大体こいつか宦官のせいにしとけばいいという風潮がある。
李傕 字は稚然。生年不明。北地郡泥陽の人。董卓の配下。董卓とその一族が横死するとその勢力を継いで朝政を壟断し大司馬まで登った。郭汜らと内輪揉めを繰り広げ献帝に逃げられて権威も失い、最後は曹操が派遣した漢臣に敗れて滅んだ。董卓同様敗者なのでボロクソに書かれることが多いが割と戦は強かったようだ。
郭汜 字不明。生年不明。右扶風郿の人とあるが李傕の幼馴染らしいので本貫なだけかもしれない。経歴もだいたい李傕に同じ。史書には李傕と毎晩仲良く宴会をしていたら妻が浮気を疑って謀ったせいで李傕と仲違いしたとか書かれている。当時の女性観がアレなので事実かどうかはわからない。李傕・樊稠らとともに朱儁や馬騰を破っており普通に強い。




