表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/37

三皇秘典

改めて読み返してみると、難渋で読みにくすぎるので後で書き直すかも…

日が沈みきる前に、街道の亭へ辿り着いた。

土塀に囲まれた小さな中庭、井戸の釣瓶が軋み、薄暗い廊下を油皿の焔が揺らしている。

龐徳(ほうとく)は先に厩へ回り、馬に飼葉と水を与えた。

馬超(ばちょう)蔡琰(さいえん)を座敷へ導き、戸口が風で鳴らぬよう楔を差した。


卓の上に、竹簡が二、三束。

馬超は懐からさらに数枚を取り出し、紐を解いて広げる。

墨はまだ新しい。隷書(れいしょ)の骨格の上に、走るような筆意が重なっている。


「……これが、わたしの考える理の()()だ。太昊(たいこう)に工典、炎帝(えんてい)に稼典、軒轅(けんえん)に保典。いずれも“失われた(さい)伯喈(はくかい)殿の収書の断簡を綴り合わせたもの”という体裁にする。文は粗い、だからこそ文姫(ぶんき)殿の筆に仕上げを頼みたい」


蔡琰は琴の箱をそっと傍らに置き、竹簡の端を両手で受けた。

灯の下、長い睫毛が影を落とす。

目はよく通る。

最初の一枚を繰ると、呼吸がわずかに深くなった。


「“稼典”――(あわ)(ひえ)はこの地の命。されど(ひでり)に弱く、痩土に息長からず。西土より伝わる“(むぎ)”を広めよ。冬播・春刈の法、(あぜ)を高くし、溝を深くして湿を退けること。……畦の高さを‘三寸’ではなく‘五寸’と定め、霜の夜に藁を敷いて根を守る、と」


蔡琰は思わず顔を上げた。


「畦の高さまで、数字で……」

「風は数字に従って吹かぬが、人は数字に従って動ける。次を」


言に従い二枚目を繰る。

指の先が墨の匂いを拾う。


「“水は高きより低きへ、力は輪に移る”。――“水車”の図。……羽根の角度、十六。(とい)の高さを肩のあたりに揃え、流れに勢い出でれば臼は回る、とあります。水が脈のように小屋を打つ音まで、文に聞こえるようにございます」


「工人に作らせる。羽根の角度は何度も変えることになるだろうが、凡例に()()()()()()()と記しておく」


蔡琰は苦笑を浮かべる。


「“必ずしも然らず”――父の文にも好みました。決め切らず、道を残す言葉」

「道は畦のように、風と水で崩れる。直せるよう、文にも余地を」


三枚目に移る。筆画は少し強くなる。


「……肥の条。“灰は火より、火は木より、木は土より来る”。藁灰・木灰は()()()、土へ還せば麦の骨となる。糞は()()を待って畑に入れよ。生きたまま入るは病を呼ぶ。――“藁と糞を層に積み、竹で穴を通し、月を三たび待て”。酒の滓を少し混ぜると臭いは鎮まる、と」


蔡琰は掌をわずかに口元へ寄せた。


「匂いまで、記すのですね」

「匂いは学に残らぬが、暮らしに残る。匂いで覚える学は強い」


四枚目。“倉”の図。倉門は東を避け、鍵は三つ、開ける者は三人。買い上げと放出の簿を()ごとに書き改め、印は官と里と郡の三。この一節に文姫の眼差しが細くなる。


「……これは、穀の流れを()()()ようにする文。巧みにございます。吏の手練手管が入り込む隙を、最初から塞ぐように」

「三人が同時に手を伸ばさぬ限り、倉は開かぬ。……これを()だけに感じさせぬよう、叙を付けたい。“民は国の本、本は倉に在り。”――そういう言い回しは、文姫殿の方がずっと巧い」


蔡琰は微笑んだ。


「叙は短く、けれど息長く。……承りました」


彼女は束を置き、別の束――“工典”を取る。最初の条は“火”。火は木より出て、煙は油になり、油の蒸気は火を嫌う。……乾留の図。土を塗った小竈に、黒い石を入れ、息を塞いで焚く。上から油のようなものが落ち、下に軽く白い炭が残る。


「火を()()()()()……。石から油……いや、油の匂いのする水と、“軽い炭”。この軽い炭に“焔は強く、煙は少なし”。……鍛冶の喜ぶ顔が見えるようです」

「火の息を短く強く。煙が少なければ、鍛冶の目と肺が長生きする」


次の条、“鉄”。低い火で塊を作り、繰り返し叩いては伸ばし、灯油で刃を拭いて熱を均す。刃は“先を硬く、根を柔らかく”。槍先は刺突のための“菱”の断面。その図は簡易ながら造形が美しい。


「文に図が添うと、言葉が嘘をつけなくなりますね」

「図は言い訳を許さぬ。だから怖い。だから、強い」


“馬具”の条は文姫が息を呑んだ。鞍木の曲線、前輪・後輪の高さ、鞍角の張り出し、尻綱と胸繋、環と革帯の通し穴。鐙は輪に皮を巻き、足先が抜けやすいよう開きを付ける。蹄鉄は“凵の字”に作り、釘は角度を付けて外へ抜ける道を残す。


「――落馬した者が、引きずられないように」

「そうだ。人を護る工夫は、人を強くする」


最後の束――“保典”を開く。そこだけ、墨の色が少し薄い。馬超の筆跡が、ためらいを含んでいる。


「……手を洗え。水がなければ、灰を揉み、酒で流せ。器は湯で煮よ。傷は泥で覆うな、清き布で押さえ、風をさえぎれ。毒が見えずとも、毒はある。――文が優しくございます」

「毒は目に見えぬ小さき虫のようなもの、だが確かに人を殺す()()。見えぬ敵ほど、言葉を柔らかくせねば伝わらぬ」


蔡琰は竹簡を整然と束ねなおした。

紐の結び目を美しく結い直す手つきに、蔡邕の娘の血が見えた。


「ならば体裁は、わたくしにお任せください。まず()()を設けます。本文は短く()に分け、余白に小さく訓詁(くんこ)を添える。印は…」

「冀に戻れば、官に印を作らせる。ひとまず文姫殿の名は外に出さぬ方がいい。とかく女の名に難癖を付けたがる者もいる」


蔡琰はうっすら笑みを浮かべた。


「世の習いに従い、陰で力を尽くすこともまた、女の道でございましょう」

「実のところこれらはまだ一片。多くを書に記している暇が無くてな…夜毎に口伝で書いてもらうのが良さそうだ」


そのとき、廊下の先で足音が止まり、龐徳が戸口から顔を覗かせた。

湯気の立つ甕を手に、粗末な盥と布を抱えている。


「若、湯を。手を温めてから筆を持たれよと、うちの亡母がいつも申しておりました」

「気が利くな、令明(ほうとく)


蔡琰は手を洗い、指先を布で押さえ乾かす。

筆を取って試し書きをする。

墨はよく伸び、筆は迷いなく進んだ。


「――筆は、まだ震えませぬ」

「ならば今夜は、冒頭の叙と、各典の目次を。あとは冀でゆっくり仕上げよう。……文姫殿、頼む」


蔡琰は静かに頷いた。

灯の焔が、彼女の横顔を柔らかく撫でる。

儚い美しさのうちに、芯の強さが見える。

琴の弦が、風も触れぬのに微かに鳴ったように思えた。


外では風が土塀を撫で、井戸の水面がわずかにさざめいていた。

三人だけの小さな荒ら屋に、夜が降りてくる。

文の筆と理の牌――その二つが、この夜、初めて同じ卓の上に置かれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ