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夕焼けジュース

作者:

「今日は紙パンツが特売だったんだよね。だから学校帰りにドラッグストア行っちゃったよ」


 言いながら、雫は自転車のスタンドを勢いよく下ろした。

 スタンドは大きな音を立て、前カゴに乗せた荷物がぽんと跳ねる。いつもより雑な雫の挙動を見て、わたしは心配になった。いらいらすることがあったのかな。

 雫は怒っている様子ではなかったけど、唇が皮肉っぽくゆがめられていた。


「制服姿で、紙パンツとかポータブルトイレの消臭液とか買うの、やっぱ目立つ気がする。店員さんじっと見てたから」

「気にすることないよ。必要なものを買ってるだけなんだし」


 そう答えたわたしの自転車のカゴには、荷物はなんにも乗っていない。高校の制服もすでに着替えている。わたしはただ雫と話をするために、ここに来た。

 だけど雫はきっと、今日も偶然会ったと思っているだろう。さっき公園前で顔を合わせたとき、雫は「香子、今日もドーナツ食べたくなっちゃった?」と笑っていたから。


「そっか。うん、そうだよね。必要なんだから。あっ、でもおじいちゃんが絶対食べないポテチも買っちゃった」


 いたずらっぽく笑う雫に、わたしも口元を緩ませながら言う。


「それは、雫にとって必要だから良し!」

「うん、いいことにする!」


 笑いながらわたしたちはブランコに並んで座る。夕暮れの公園。沈みかけの太陽が周りのすべてを桃色に染めていた。

 西の空に浮かんだ小さなシュークリームみたいな雲は、雫のため息が形になったみたいだと思った。

 いや、シュークリームじゃなくてエクレアかな。表面にピンク色のクリームがかかったエクレア。日が沈むまでのわずかな時間、今しか見られない魔法のような空と雲の色。


「おじいさん、やっぱり腰が痛いって?」


 なにを話そうか悩んでいる雫に、話題を出してみる。

 雫はうなずいて、おじいさんが自分でなんでも自分でしたがることや、そのたびに転んでしまうので目が離せないこと、トイレを失敗してしまうことなんかを話してくれた。


 雫は家でおじいさんの介護をしている。

 両親ももちろんお世話をしているけど、ふたりとも仕事が忙しく残業続きで、責任は雫の肩に重くのしかかっているらしい。


 雫が自分の家のことを話してくれるということは、とても貴重で大切なことのように思えた。だからわたしは一生懸命話を聞く。真剣にうなずく。

 一か月前まで、雫の大変さに気づけなくてごめんね、と心の中であやまりながら。



 一か月前、この公園前でわたしと雫が会ったのは、本当に偶然だった。


 わたしはどうしても食べたくなったドーナツを買いに、ショッピングモールへ行った帰りだった。

 そのとき、雫がのろのろと自転車を走らせているのを見つけた。声をかけると泣きそうな顔だったので驚いた。放課後、校門でわかれたときは元気に手を振ってくれたのに、と。


 あの日の雫も、急ぎ足で家に帰っていた。寄り道なんて絶対しない。わたしの方は雫と寄り道をしたいと思っていたんだけど。雫といるのは楽しいから。


 学校にいるとき、雫とわたしはずうっとおしゃべりしている。

 初めて試したネイルのことや、SNSで見かけた面白いつぶやきや動画のこと、ごくたまにテストのこと。話題は尽きることがなく、できれば学校が終わっても話していたいと思っていた。

 だから放課後になると、どこかに寄って帰ろうよ、と何度も雫を誘った。そのたびに断られた。


 いつ誘っても「時間がなくて」と言われる。もしかして雫は、学校以外でわたしといるのは嫌なのかな、とショックを受けた。

 だけど何度目かの誘いを断ったときの雫を見て、わたしは考えを改めた。


「わたしも本当は香子と遊びたいよ」


 雫の訴えるような言葉と表情は切実さを帯びていた。きっと本当の気持ちなのだろうと思った。

 それからわたしは雫を誘わなくなった。

 代わりに学校にいるときはせいいっぱい楽しく過ごそうと決めた。うっかりと事情を詮索しないように気をつけていた。


 だけど、泣きそうな顔で自転車をこいでいたときの雫を、見て見ぬふりはできなかった。

 わたしは雫を公園の中のあずまやに引き入れた。


 ベンチに座らせ、テーブルにドーナツと自販機で買ってきた缶コーヒーを並べてすすめた。

 コーヒーに口をつけた雫が一瞬眉を寄せたので、コーヒーにしなければよかったかな、と後悔した。それでも雫は「おいしい」と言って、ドーナツとコーヒー、両方を平らげた。


 雫の隣に置かれたエコバッグからは、「介護用防水シーツ」と書かれたパッケージがが見えていた。

 わたしの視線に気づいたのだろう。雫は固く引き結んでいた唇を少しずつ緩め、はあ、と長いため息をついた。


「これ、おじいちゃんの」


 エコバッグを指さして雫は言った。


「紙パンツにパッドも当ててるけど、横から漏れちゃうんだよね。だからベッドにこれ敷いとこうと思って」


 敷いとこう、という言い方で、雫は買い物を頼まれただけではなく、おじいさんのお世話をしているのだとわかった。


「ごめん。いきなりこんなこと話されても困るよね」


 雫はコーヒーを飲んだときより苦そうな顔をしている。わたしは思い切り首を振って、言った。


「困らない」


 弾かれたように、雫は顔を上げた。わたしは雫の目を見たまま続ける。


「わたし、雫と話すの好きだから、全然困らない。どんなことでも話してよ。聞きたいから」


 雫はくしゃっとゆがんだ顔を両手で隠して、何度もうなずいたのだった。



 あれからわたしは、雫がドラッグストアに買い出しに出掛ける時間に「偶然」会えそうな公園のあたりをうろつくようになった。

 会えたときは毎回話す。雫は長時間家を空けていられないので、十分程度で終わらせるようにしていた。


 今日も、制服のまま買い物に出掛けていた雫は忙しそうだ。今の朱色の空が深い紺色に変わる前には解散しなければならない。


「大変だよね。おトイレのたびにお世話しないといけないんでしょう?」

「それが意外と平気なんだ。出したものが手についても大丈夫。おじいちゃん便秘気味だから、出て良かったねーって嬉しいくらい。嫌なのはしょっちゅう呼ばれることかな。なにかに集中したくてもできないから」


「ああ、テスト前とかつらいねえ」

「うん、昨日さ、そのことでお母さんにちょっと愚痴っちゃったんだよね。おじいちゃんにひっきりなしに呼ばれるから、宿題するのも大変だよーって」

「うん」

「軽く言ったつもりなのに、お母さんが急にキレちゃったんだ」


 自分の髪の毛を引っ張りながら、雫はむっつりとした顔で続けた。


「気楽な学生と違って、社会人は大変なの! こっちは生活のために頑張ってるんだからそのくらいで文句言わないで! ……って、向こうも疲れてるんだろうけどさあ、当たらないでほしかったよ」


 わたしはやっぱり、受け答えの仕方がわからないままだった。だけど今教えてくれたことをきちんと噛みしめるように、何度もうなずいた。


「そっかあ」


 わたしが間の抜けた返事をしても、雫は怒ったりしなかった。


「そうなんですよー」


 と笑みを含んだ声で言い、ブランコを大きく漕ぐ。

 わたしは相づちを打つことしかできない自分がちょっと情けなくて、雫よりも控えめにブランコを揺らした。


 空を見る。朱色の空に浮かぶ、エクレアのような雲はますます桃色のクリーム部分が増えて、きらきら輝いていた。そのあたたかい色に励まされるように、わたしは隣の雫に視線を戻した。


「今日の空、すごいね」


 わたしがなんとはなしに言うと、雫は大きくうなずいた。


「きれいだよね。世界中がオレンジとピンクに染まってる。わたし、この色好き」

「わたしも」


 わたしたちは目を見合わせて、ふふっと笑う。ふたりの揺れていたブランコは止まり、雫はそっと口を開いた。


「香子と会えたの、今でよかった。なんか、きれいな夕日の光浴びてさ、ささくれが痛まないように、そっと撫でるみたいに話聞いてもらってさ、わたしの表面だけでもきれいになった気がしたよ」


 雫の言葉にわたしは首をかしげた。きれい、きれいじゃない。それは多分、見た目のことを言ってるんじゃないんだろう。再び話し始めた雫の声は静かだった。


「わたしの中身は、本当に、毎日、ぐちゃぐちゃだからさ。昨日だってお母さんにあんたのお腹の中は真っ黒だって言われるし」

「それはケンカの勢いで、つい口から出ちゃっただけだよ」

「でもなあー」


 毎日おじいさんのお世話に追われて、気が休まる暇もなくて、家族にさえつらさを理解されないのなら、心がざらついてしまうのは当然だ。大変な環境の中で、必死にもがいているだけだ。

 雫が自分の心をきれいじゃないって思うなら、わたしは何度でもそれを否定したい。そのまんまで大丈夫だよって言い続けたいよ。


 本当はそう、叫びたかった。だけど言えなかった。わたしは何様なんだ。どこから目線なんだ。この声は雫に伝えていいのかどうか、その判断もできなかった。

 叫ぶ代わりに、わたしは立ち上がった。


「ちょっと待ってて」


 言い置いて小走りに近くの自販機に向かう。二本のペットボトルのジュースを買って、一本を雫に差し出した。

 雫はコーヒーよりも甘いジュースが好きだと、公園で会うようになってから知った。だから買ったのは桃のジュースだ。見るからに甘そうな、ピンク色のジュース。

 ありがとう、と言って受け取る雫に、わたしは言った。


「夕日色に染まったのは雫の表面だけじゃないよ。これ飲んだらきっと、中身まで桃色になるよ」


 きょとんとした顔でわたしを見ること数秒。そのあと、雫は弾けるように笑いだした。


「あはは、わたしのお腹の中、夕焼けの色にできるのかあ」


 ひとくち飲んではたずねてみた。


「どう? 桃色になった?」

「なった、なった」

「よかったー」


 飲みかけのペットボトルをもてあそびながら、わたしは呟くように言った。


「……桃色じゃなくても、いいんだよ。どんよりした灰色の天気でも、真っ暗な夜でも、青空のときでも。会えたら、話そう。どんなときでも、雫は雫だからさ」


 なに言ってんだろうね、わたし。そう言って笑おうと思っていた。だけど雫の顔を見てやめた。

 目をぎゅっとつぶった雫の顔が、みるみる赤くなっていく。


「……うん、ありがと、ありがとうね、香子。わたしもね、もっと香子と話したい。中身が黒かったり灰色だったりするかもしれないけど、話したいよ」

「うん、いつでも、話そ」


 雫の目の端から涙が一筋流れ落ちた。なにもかもが夕日の色に染まっているから、涙も当然、桃色だ。

 今日の雫は顔を隠そうとせず、泣き笑いの顔をわたしに向けた。

 わたしも笑った拍子に涙がこぼれた。環境も悩みも違うけど、今、雫とわたしは同じ色の涙を流している。


 公園の前で二手に別れる。自転車に乗った雫は去り際に声をかけてきた。


「香子ー、いつも、『偶然』ここにいてくれて、ありがとねえー!」


 あっ、と思った。雫はわたしが雫に会うために公園に来ていたことに、気づいていたんだ。雫にはわたしの気持ちなどお見通しだったのだ。

 前を向いたままこちらに手を振る雫に、わたしは笑いながら、ジュースのペットボトルを振って答えた。

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