帰る場所を定めて未来を見つめる
暑くなると、もう遠い何年も何年も前の夏休みを思い出す。少しぬるい冷房の中でスイカを食べて、スイカの皮をベランダに置いておくとクワガタが来たこと。父と蝉捕りに公園へ行ったこと。そうめんと天ぷらのお昼ごはんが続くようになること。夏休みの自由研究のテーマに蝉の羽化を選んだこと。もう戻れない輝きの中だからこそなのか、終わりなく続くように思われた夏休みのことを私は良く思い出す。携帯電話がなくても友達と約束をして公園で遊んだこと。ラジオ体操に行った朝は二度寝していたこと。夏のお祭りでお菓子とおにぎりを貰ったこと。永遠に続くような気がしていた。
思えば、あの頃から随分遠くまで歩いて来た。歩いたり走ったり休んだりして、ここまで来たのだろう。時に気持ちが「過去」に戻っても、戻らない時間の流れの中に生きている私達は最後には必ず前を向いて歩き始めるのだろうと思う。
この家に住んでからも沢山の時間が流れた。当初に思っていた「自分の家に対するお客様感」は、いまではかなり和らいだ。どんなにこの家で暮らしても、私はずっと「帰る場所はここではない」と思い続けていた。私はきっと、もう二度と帰ることはないであろう、むかしの家に帰りたかったのだろう。だが、ある時に思った。私の帰りたいむかしの家は、もうないのだと。もしもいまも建物がそこにあり、家族の誰かが住んでいたとしても。私が住んで暮らしていた頃を起点とする「過去」から沢山の時間が流れて「現在」になったいま、もう間違いなく私の帰る家はここだった。
私が子供の頃は、まだ家庭環境や家族に違和感を覚えることは少なく、また、時に覚える違和感を文章化して取り出し、再認識する方法はなかった。家と学校が全てであり、他の家庭と比較する術も持たなかった私は、こういうものだろうと思って――あるいは、それすらも思うことなく――ごく自然に暮らしていた。
――もう、この家を出るしかない。そして、きっと私はもう二度と家族と連絡を取ることはないだろう。そう思って、初めての引っ越しをした日。もう帰れないと強く思った日。あの時に、私は改めて生まれたように思う。涙は出なかった。でも、泣いていたのかもしれない。
綴るにはつらいくらいの記憶も沢山、生まれた。帰りたい、帰りたいと思いながら真っ暗な部屋で泣いていたこともある。
やがて、二度目の引っ越しをしてこの家に来ても、私は私に対する「お客様感」が否めなかった。自分の家具、自分のパソコン、自分のマグカップ。どれだけのお気に入りのものに囲まれても、映画のセットの中に立ち尽くしているようだった。お気に入りのものを増やせば増やすほど、足元から悲しみの花が咲いて動けなくなってしまうように思えた。どこかに帰りたい。そう、ずっと思っていた。
けれど、もう決別の時が来たと私は思う。ここが間違いなく私の帰る場所で、帰る家だと思うことにしよう。思わなければ、私はずっと「過去」に座り続けるのだろう。そう、私が本当に帰りたいのは「過去の家」だ。自分の家庭環境や家族に大きな違和感を覚えることもなく、家と学校が楽しさと悲しさの全てで、今日も明日もその先も、ずっとずっと遠くまで繰り返し繰り返し続いて行くと夢をみていた頃。幸せと認識するよりも前に幸せだった、あの頃の私。その頃の家がいまもあるのなら、私はもしかしたら訪ねて行ったかもしれない。しかし、そんな家はもうどこにもない。時間が流れ、人も変わった。私に限らず、誰しもが「過去」に戻ることは出来ない。そのことを私はいままで分かっている振りをして来た。分かっている、そう思いながら、どこかで願っていた。帰りたい、と。
人は、自分の気持ちの置き所を求める生き物かもしれない。私は、きっと自分の気持ちの多くを「家」に置いておきたいのだろう。自分のことを守ってくれる「家」に。それを私は、「現在の家」に定めようと思う。
もう「過去」に気持ちを遣ることはやめよう。そう決めたところで、人はどうしても「過去」を見てしまうものだとは思う。永遠に続くと思うことなく思っていた、子供時代のあの頃。父、母、弟がいて。学校に行けば友達がいて。繰り返し繰り返し、続いて行く毎日が私はきっと大好きだった。その頃から遠く離れた「現在」に歩いて来たことが私は少し悲しく、そして、誇らしい。諦めてしまうかもしれない瞬間は数え切れないくらいにあった。もう、ここで良いと。それを思い留まらせ、今日まで導いてくれた多くの友人のことを思うと、私はどうしようもなく泣きそうになる。いなくなった友人。いまも傍にいてくれる友人。私を支えてくれる人々。私は「家」と「友人達」に気持ちをいつも預けているのだろう。感謝が募る。
この先の「未来」には当たり前に約束などなく、私が歩いて行くことでしか分からないことで溢れている。私は「過去」を忘れない。思い出すことは、これから先もあるだろう。けれど、「過去の家」に思いを置くことはここでやめよう。大切に仕舞っておくだけに留めよう。私が帰るのは「現在の家」なのだから。
ずっと切望していた夏の青空に力強く羽ばたいて行く蝉のように、私も力強く生きて行きたい。