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A

盲いた聖者、唖の女神

作者: 灰撒しずる

 芥子の香――阿片に代表される中毒性のある薬が遊びに使われるようになったのは、カトナ・ヴィヴェルでは百年ほど前のことだ。元々は聖職者の瞑想を助ける物として用いられた香が庶民に流出して広まった。この国で芥子を栽培している地域は少なく、大多数は国外から入ってくる。

 中毒性が深刻視され、国軍による規制がかかったのは遅れておよそ五十年前。麻薬取引を行った者たちへの罰は重く、幾つもの悪党がこの時期に潰されて消えた。

 それでも悪の芽が全て摘まれることはありえなかった。取りこぼしは大きく、西方領の大港レスタートにはイーディア党が根付いた。後に西の暗部を広く治下とし、軍部と戦うことになる大党である。

 宗教組織を母体としていたイーディア党には、阿片や麻薬を密輸する脈が太く残されている。元より国軍より古い組織で外国との繋がりも深く、こうした取引は党の収入源の五割を占める。残りの五割も薬と同じように仕入れた、魔石や魔獣によるものだ。


   §


「坊主はここに来るとき、いつも顰め面だな」

「嫌いですもの、此処もアンタ様も。とっとと終わらせて帰りたいんです」

 そうした薬の入ったトランクを床に降ろし、少年が揶揄に言い返す。

 悪党が国軍と張り合うまでの大樹に成長したのは、単に脈があったからというだけではない。イーディアの歴代党首は部下の選別に何よりの重きを置いた。

 イーディア党は国の組合(ギルド)よりも余程優れた”運び”を多数抱えている。

「まあまあ、ゆっくりしていきなよ。この時間じゃあ、もう馬は出せないだろ。お付も皆寛いでるよ」

 その運びの一人を前に、禿頭の中年男が笑いながらテーブルに紅茶を置く。茶器はヴィルシュター調の赤い草模様が美しい上等の物で、中身も一袋で金貨が消える夏摘みの高山茶。置かれたテーブルも使い込まれて飴色の艶を出している高級品だ。

「寛いでないのはお前だけだ、リーシル」

 テーブルと同じ家具職人が作った座り心地のいい天鵞絨(ヴェロア)張りの長椅子に腰掛けた十代半ばの少年は、調度品には劣るがそこそこ質のよい服を身につけている。白い肌に灰色の髪と青目の中央民族らしい薄い色合わせは、逆に重く暖かな色味の多い部屋によく映えた。

 リーシルと呼ばれた彼は十分に暖かい室内でマントを羽織ったまま、自分の歳を倍にしてもまだ足りないほど年上の男を前に、椅子に深く座り込んで足を組み尊大に構えていた。麻薬を持って訪れるイーディア党の”運び”には、それだけの態度が許されている。

 姿勢はそんなものだったが、顔には作ったのが見え見えの強張った表情があった。それを不機嫌ととるか緊張ととるか、それとも別の何かととるのは、人によるのだが。

「そんなに親元恋しいかい」

 禿頭が言った言葉に、腹の前で組まれていたリーシルの手袋をした指先が跳ね、眉間に皺が寄る。睨みつける視線に禿頭――ジュスターは暴力反対とばかり、両手をちょいと胸の前に出した。彼の立つ背後、飾り棚の上には同じような姿勢で目を閉じる像がある。祈りに立つ幼子の像だ。

 ――西方三大都市に数えられるハーディラットの郊外に位置する聖堂は、長の許可なしには何人たりとも立ち入りが許されず、軍すら容易には出入りできない特別な宗教区域の一つだ。

 神域不可侵の約定に守られる、人の法ではなく神の法を戴く地。そうして浮世と隔たれているだけに、宗教区域では日々信仰に努める人々がいる裏で、国法を無視した行いが蔓延している。特に星神教白詰派に至っては、人の法も神の法も無いに等しいほど。ハーディ八角聖堂はその最たる例で、薬物と数多の欲が満ちた邪教の城と化していた。

 今も何枚かの壁を越した先から、神経を撫でる、下卑た笑声や、男女を問わない嬌声が微かに聞こえてくる。それに祈りの部屋での讃美歌が加わると、それだけで酔いそうな、麻薬に似た奇妙な音楽になる。これが我々の信仰だと、声は高らかに叫んでいた。

 こうした土地に国の勢力が立ち入れないことは王国議院でも問題視されているが、多くの宗教が絡む問題だけに解消は難航しているようだ。約定と折り合いをつけるには、あと十年はかかると言われている。

 聖堂がこうした環境になる力添えをしているイーディア党の運びは、心理的に澱む空気を努めて無視した。

「幹部がそんな顔じゃいけないな、リーシル。もっと余裕に構えなければ。イレザクやジャンジャンが笑うのが見えるね」

「大きな世話ですよ」

「そうだ、菓子を出してやろう。今日はなかなか良いのがある」

 運びを客として迎えた側、白詰派助祭司クロースス・トレフリアのジュスターは小さな運びの言葉を無視して向きを変え、戸棚を探り始める。完全な子供扱いに気分を害した運びは、それでも怒鳴る選択をせずにテーブルの上の砂糖壷を引き寄せた。

 受け皿に添えられたこれも高級品な骨董のスプーンで、上質な白砂糖を紅茶の中に落とす。音の立たぬように混ぜ、口元へと運ぶ動きは取引に合わないがこの部屋に似合う、育ちのよさが窺える。

 ジュスターは菓子が見つからないようで、幾つかの扉を開閉しながらまだ彼に背を向けていた。聖職者の白い背中を眺めながら、リーシルは薫り高い茶を飲み続ける。

 彼は味の分かる舌を持っている子供だったが、ジュスターの先の発言のとおり、この場で味を正しく感じられるほどの余裕は持ち合わせていなかった。彼は党から重要な仕事を任される人間ではあっても、こうした場所で笑顔で食事できるほど悪意と馴れ合っていない。品評会で上等の印を得た茶の実力も感じられず、ただ、少しばかり痛む気がした胃を温めるだけに一杯を乾した。

 暫く空のカップを玩んで朱色の模様を眺めていたが、祭司はなかなか振り向かない。自分でもう一杯入れるべく、リーシルは身を起こす。

 ガシャン――と割れた音は部屋の外から。

 間を空けずに悲鳴が廊下を劈き、ポットへ伸ばされた手がびくりと動きを止めた。若い女の、空気を引き裂くような甲高い声はまだ続いている。ほとんど言葉になっていないそれは、すぐに止みそうな様子ではなかった。

 ジュスターが振り返って、困り顔を作ってリーシルに向ける。手には焼き菓子を載せた皿がある。

「お前が持ってくる薬を食事のようにとってる淑女がいらしたんだがね、お布施がないからさ。悪いね、騒がしくて」

 申し訳なさそうに言いながら、彼は皿を置いてリーシルの代わりにポットを手にとった。まだ温かい紅茶が音を立てて注がれる。

 運びが聖堂に運び入れる麻薬には、儀式用の麻薬と売買目的の麻薬との二種類がある。後者の虜になったという女の悲鳴はまだ止まず、一緒に男の叫ぶ声まで聞こえてくる。

 腕を下ろし、目の前に置かれた無花果とナッツの見えるケーキの断面を見下ろして、リーシルはやっと口を開いた。

「……一人じゃなさそうですけど」

「同じ星に導かれた男性もお見えでね。俺の女がこうなったのはお前たちのせいだ、などと門の前で喚き始めたものだから、ご一緒してもらった」

 世間話でもしているような調子で、どうぞ、と紅茶の二杯目が差し出された。深い橙色に見える表面を見つめて動かない少年に、ジュスターは苦笑いした。

「――罪悪感でも抱えているかい、リーシル。祈りの部屋まで案内しようか」

 言うのはなんとも聖職者らしい、慈愛に満ちた顔だった。声も十二分に気遣いと優しさを含んでいる。

 そうしていると彼は本当に優しい中年であるように見えるのだが、如何せん、背後に聞こえるのは讃美歌や聖楽ではなく、生々しい人の悲鳴なのだった。見上げ、リーシルは口角を微弱に持ち上げた。

「まさか」

 スプーンに指を滑らせ、彼は声を絞り出した。吐息のようだったのは一瞬で、声はすぐに明確さを取り戻し、水のように淀みなく、唇から流れ出た。

「道具ってのは使われるもんなんですよ。運ぶのは私らですけど、使うかどうか、選ぶのはアイツらのほうでしょう。誰かが腑抜けになったのも死んだのも、不幸なのも惨めなのも、あっちが勝手に下手打っただけだ。なんで私が、懺悔なんぞ」

 リーシルは白砂糖をまた一匙放り込んで、何事もなかったような所作でカップを持ち上げた。

 きっぱりと言い捨てた言葉はジュスターには虚勢のように聞こえたが、それを指摘してやるほど、彼は運びに対して辛辣に当たれなかった。

 彼は紛れもなく聖職者の皮を被った悪人だが、子供がこうした場に立つことにはどちらかと言えば否定的な男だ。加害者の側にしても被害者の側にしても、分別のある大人だけで十分だと思っている。今し方リーシルが言ったように、そのあたりは自己責任だと。

 止まないと思われた悲鳴と怒号はいつの間にか途絶えていた。それが、彼女らが大人しく事態を受け入れる気になったのではなく、誰かが腹に拳を突き入れるなどして無理に黙らせたのだとリーシルはよく理解している。その後何処に連れて行かれるのかも、大凡の見当はついたが、深く考えることはしなかった。

「ところで、そっちは今どんな具合だい。港にも大分、軍が介入するようになったろう」

 声を再び気軽な調子に戻して、ジュスターは尋ねる。彼は立ったまま、腕を組んで運びを見下ろしていた。紅茶を少しだけ飲んで、出された菓子に手をつけない子供の姿を。

「町ん中も軍人が増えて、皆引きこもってますよ。秋の祝祭が終わるまでは大仕事も無しです」

「そんな時期にわざわざご足労頂くとは」

「一番危険と手間が少ないのは私ですから」

 子供である、という事実は、弱点でありながら利点でもある。彼と彼の同僚の大人たちでは、軍人たちの向ける眼は明らかに違う。情報も出回っていない現時点では、誰も彼をイーディア党の幹部だなどとは思いはしないのだ。

 その上、彼は悪党の運びらしく機転が利いて演技もそこそこに上手い。親戚の家に預けられる子供にも、何処かの屋敷の小間使いにもなれる。荷物を持って街道を通る理由付けはいくらでも、口から出任せに出来た。彼は軍人が行き来する中で麻薬を届けるのにこの上ない適任者だった。

「仕事の為なら嫌いなところでも来るか。殊勝だなァ」

「無駄は省くものです。そこらの奴に任せられれば、一番いいんですけどね」

 揶揄を蒸し返した助祭司に苦々しげな声が返る。「ハーディ聖堂はそうそう軽んじられる相手ではない」というのは、イーディア党の運びたちの一致した意見だった。

 ジュスターが何か戯言を続けようと口を開いたその時、ようやく扉が軋んだ音を立てて開いた。此処では珍しくもない白の祭服の裾が覗き、聖堂の長である冠を被った体格のいい男がゆっくりと姿を現す。

「待たせましたな」

 ジュスターよりも年上で白髪交じりの偉丈夫は、悪びれた様子の感じられない、横柄に聞こえる声で言った。

 立ち上がったリーシルの口元は緩やかに弧を描いている。大人を出迎える子供の明るいものではなく、どこか含みのある、得意先に対する商人のような顔だ。

「ええ、お待ちしておりました、祭司長(クロウヌ)。早速始めましょうか」


 そこからの手並みは実に熟れていた。

 祭司長シプリアンが椅子に腰掛ける間にも、リーシルは鞄を持ち上げ、その留め金を弾いて手際よく中の品をテーブルへと並べて見せる。

 長椅子の中央に座すのは先程まで怯えていた子供などではなく、大悪党の抱える運びに相違ない。党首の代理としての格を身に纏い、聖堂の門を叩いた”運び”だ。

 瞬く間に表情を変えた様に、一歩引いて上司の傍らに控えた助祭司は嘆息した。

「こちらが、いつもの品。オピウム、フィルトゥル、マイアデス、セーペンテ……全てご希望の量お持ちいたしました。ご確認下さい」

 そのような姿は最早視界に入れることなく、リーシルはトランクにきちりと納まっていた物を前に口を動かす。これが、これがと言うその様は市井の薬屋のようだった。

 まず、封蝋で帯紙を留めた木箱が三つ――聖堂では一月分になる箱詰めの阿片。香辛料のように細身の瓶に納められた、植物の渇いた葉と、灰色の粉末。華奢な見た目に反して頑なな鍵で閉ざされた黒い小箱。

 リーシルは首に下げた細い鎖を引き、小さな銀の鍵を箱の鍵穴に添えた。軽やかに回し、蓋を開けて取り出された遮光の紅い小瓶の中でさらりと液体が揺れる。静かにテーブルに置かれ、祭司の前に押された。

 どれもこれもが合法ではなく、それぞれに、この場に軍が踏み込めば言い逃れの出来ない一品だ。動きは薬屋染みていたが、並べた物は物語に出てくる魔女の品々に近い秘密と不吉な空気を纏っている。

「あとはこちら。お試ししていただきたいと、お持ちしました。新しく仕入れた物です」

 最後に、と言いながら運びが取り出したのは、掌と同じぐらいの大きさの、薬や砂糖菓子を入れるような薄い円筒状の入れ物だった。錫で出来たそれはよく磨かれ、表面には白詰草の模様が浮き出ている。

 静かに蓋を開けると柔らかく甘い匂いが滲み出し、テーブルの上に密やかな空気を一刷け上乗せする。

 中には親指程度の、淡い褐色の石のような物が薄紙に覆われて詰められていた。白い粉を吹いたそれらは本当に菓子か何かのように見える。

「セランブル――天上の琥珀、と呼ぶことにしたそうですけれど」

 乳白色の紙を摘まんで捲りながら、リーシルがゆっくりと言葉を舌に乗せた。微笑んで一間置き、小粒の塊をシプリアンに差し出す。接触を厭うように慎重に手渡された。

「乳香に似ていますが」

「香りもなかなかですが、効果はもっと上々、芥子にも勝ります。心は安らぎ、頭は冴え渡ると」

 年嵩の祭司長が実物を眺める間に、運びはトランクの隙間に差し込んであった紙を取り出して開いた。図鑑に載っているような樹木の絵と、解説が書きつけられている。

「産地はノアンリール。作り方は乳香とも大して変わらないそうで、木から摂れる樹液の加工品です。御覧のとおり、塊になってるんで炉でやる方がオススメですけど、砕けば煙管に入れても使えます。芥子の一回より長持ちしますし、悪くないと思いますけど――」

 テーブルの空いた所に押し付けるようにして折り目を伸ばし、これもシプリアンの前にやりながら、すらすらと覚えた言葉をなぞる。

「それに、(リオ)の眼を欺くにはよろしいでしょう? 大聖堂だって、香は普通に持ってますからね。聖堂に運び込んだって怪しいことはございませんもの」

 笑みを深めて言う少年の方を見ないまま、祭司長は暫く、セランブルと呼ばれた欠片を指先で玩んでいた。

 たっぷり一分、沈黙が横たわり、その間誰もが乳香のような新しい薬に視線を注いでいた。

 祭司長が粒を置かれた入れ物の中に戻すのを見計らって、リーシルは口を開く。

「レスタート・ルゼンベルより、ハーディラットまで。定日十日の本日、確かに――」

「君は使ってみましたか」

 運びの決まった台詞を遮り、祭司が言った。

「……いいえ。私はやりませんので」

 目を瞠ったリーシルが、瞬きし、一度口を閉ざしてから殊更ゆっくりと声を発する。苛立ちの透けた声だった。

 シプリアンはそんな運びを眺めて、笑みを滲ませた。

「では、試しに。丁度夜の祈りの時間だ。君も見物していかれるといいでしょう」

 彼の後ろでジュスターが眉を寄せた。

 普通であれば、どうでしょうか、と誘うところ、この時のシプリアンの発言はそうした遠慮を含んでいなかった。運びを子供と見下しての挑発、弱者を転がして愉しむ性質の、悪趣味な提案だった。

 リーシルの青い目が細められる。

「ご一緒しましょう」

 つまらない自尊心だと理解していながら、彼は逃げることを拒絶し、堂々とイーディア党の幹部を演じて見せることを選んだ。此処で申し出を断れば内心で軽んじられることに間違いはなく、それはリーシルには許しがたいことだった。彼は怯えではなく、シプリアンを迎え撃つ為に硬い声を発して立ち上がった。

ジュスターが溜息を吐いたのは誰も見なかった。


 三人は連れ立って応接間を出た。扉を二つ通り抜けると、壁や床からは温かな色味が抜けて白いばかりの回廊となる。足音も軽く聞こえるようになり、空気は微かに動いてひんやりと肌に触れる。

 祭司長は銀の手提げ鐘を、助祭司は燭台を手に。運びはその後ろに、件の薬香を持って続く。最初は密やかな行進だった。

 大した距離を歩かないうちに、聖堂らしい風景は掻き消える。

 呻きとも喘ぎともつかない渇望の声と、死に瀕した者のする喘鳴に似たか細い息、浄化の為の香とは違う、人の頭と心に取り入り我を奪う誘惑の香が、通路を満たし、通る者の身を取り巻く。

 密やかでありながら濃厚に牙を研ぐ何かの気配をリーシルは感じた。気安く覗き込めば引きずり込みにかかるだろう、この国のあちこちに百年横たわっている暗闇の空気だ。扉のない部屋の入口が、人々の欲を飲み込む坩堝として口を開けて連なっている。

 窓のない部屋でも灯りは過剰なほど。青い目の端には絵付きの巻紙(ルーロ)を広げたように、熟し腐れた聖堂の姿が映る。

 ある部屋では、下祭司が絨毯を引き、寝そべって阿片の煙管を銜えている。傍らに教典を置き、時折、祈りの言葉をうわ言のように呟きながら。

 ある部屋では、子供に近い若者たちが讃美歌を歌っていた。どこか尋常ではない背筋の震える美声が一室を包み込む中で、下祭司の一人が香油を垂らしつつ誰かの肌を撫で回している。廊下から見えた脚は五本だった。

 ある部屋では、葡萄酒の杯の上で灰のような粉を降らせる女祭司がいる。一口含み、目を閉じて、慈母のように満ち足りた様子で椅子に座った若い女に口づける。傍らには既に、多量の酒を飲み干した後のように肢体を投げ出しながら笑う女たちが折り重なっていた。

 ある部屋では、二つの死体が並んでいた。痩せて肉の削げた暗い肌の男たちだ。煌々と火を灯し、香を焚き、彼らの魂の為に年老いた男が祈っている。神の導きよあれ、魂の安らぎよあれ、天での癒しあれ。

 まぐわう男女と啜り泣く子供。意味のない言葉を喚く男を囲んで踊る女たち。ひとつひとつの声を聞き分けることも難儀な区画さえあった。

「元を辿れば、君に行きつきますよ。イーディアの使徒」

 シプリアンが静かに囁いた。慰めに近い、子供を窘めるのに似た声だった。部屋を見渡す彼の顔は安らぎを得た聖人のものと等しい。

 唇を噛んだ運びは肩を揺らした。

「……あら、ご趣味の悪いことで。人を待たせといて立ち聞きなんて、聖職者のなさることでしょか」

 媚びるように角を丸めた調子で、笑いを含ませた声を発する。馬鹿丁寧な言葉には中央育ちの品の良い響きが意図的に混ぜられていた。

 彼はそのまま一言諳んじる。

「導きの星は一つに非ず。貴方様なら、十分ご理解のことと思いますけれど。――もう一度言いましょうか。選んだのは貴方様、そして彼らだ」

 『導きの星は一つに非ず。星は人の魂に宿る、女神の声である。』教典を引き出す声は謳うように軽やか、念を押すかの一言は重石のように低く。青い目を眇め睨みつけた運びは威嚇に唸る獣のようでもあった。白い肌は常より白く、血の色の透けるべきところは薄く蒼い。息が震えていないのは上出来と言える。

 言葉を信奉する聖職者は上機嫌に笑った。

「そうとも。人は――君もどうやら、否定的なようですが。これも手段の一つなのですよ。我々は自ら選んだやり方で神に寄り添うのです。快楽も苦痛も手段であり到達点。そこには他の何人の思惑も介在しない。してはならない。一人と、神との対話だ」

 カラン。言葉は一度途切れ、銀の鐘が鳴らされる。絡みついた空気を揺り動かし、人々を誘い出す音だった。

「私は感謝しているのです。運びの存在なくして、この場の信仰は成り立たない。君が物を運んでくるお陰で、彼らは助けられ、神の高みに至ることが出来る。……無論私も。まこと、君たちは女神の御遣いだ」

 シプリアンは善行を褒め称えるかの厳かな口調で言い、笑いの皺を深く深く顔に刻む。

 彼が鳴らす鐘に呼ばれ、部屋の中から下位の祭司や信徒たちが抜け出し、後ろに従っていく。静かな足音と衣擦れの音が増えて重なり、風が草原でも撫でているようだった。

 往く人々は大半がまともな目つきをしておらず、聖者や信徒の列というよりは、亡者の列と言った方がしっくりとくる様子だった。信者の中には酔いつぶれているか寝ているか、はたまた、最早立つこともできないほど薬に蝕まれているかで動かない者もいたが、それに対して彼らは無関心だった。敢えて部屋を出ず、祭司たちに挨拶を交わしただけの者もいる。誰もが、自らの選択に遵っている。

 列の只中で、運びは祭司の言葉を反芻した。さて自分やイーディアが欠けたところで、この場からこの狂気は取り除かれるだろうか、と。

 リーシルの結論は否だ。彼らは、運びが薬を運んできた故にこうなったのではない。彼らが求めているからこそ、運びは薬を運ぶに至ったのだ。もしイーディア党が運ばなければ他の誰かが運び入れることになるだろう。仕事も悪意も、需要のあるところに生じる。運びは求めに応じるものだ。

 よしんば運びや商人の類が現れなかったとして、彼らは自ら這いずって麻薬を求めに行くに違いない。それが欲であれ信仰のなれの果てであれ。

 ――しかし今、この場に運び入れたのが彼であることは否定のしようがない。少年は胸に湧く不快感を捻じ伏せて無感動な顔で歩き続けた。眩暈するのが澱んだ空気の所為なのか、それとも未だしがみついて離れない罪悪感や善意の所為なのか、リーシルは決めかねた。

 神を讃える言葉が呟かれては床に落ちる。行進はやがて祈りの為の大部屋へと行き着き、足音は静まり返った。女神の像と燭台、香炉、祭司の座。無駄を省かれた純白の清らかな部屋に、神と安らぎを求める人々が傾れこむ。

 前列に下祭司たちが立ち並び、後列に五十ほどの信徒が座る。見れば裸体や下着同然の粗末な姿の者もいたが、当人も他人も気にした風はない。これが聖堂の日常なのだと示す、異常な光景だった。

 祭司長と助祭司の横、一段高い所に立つことを許されたリーシルは彼らを見下ろし、三度瞬きした。やがて自分のすべきことを思い出し、信徒たちから自分はどう見えているのか考えながら、静かに、薬の粒を取り落とさないよう慎重に錫の蓋を開ける。彼らを更なる高みに誘う聖なる香だ。

 薄く微笑んだのは、癒しを渇望する人々には慈悲と見えたかも知れない。

 運びは年代物の銀香炉に琥珀色の欠片を摘まみ入れ、火を移す。八つの香炉全てに同じ事をして、熱が香へと移る前に壁に寄り、信徒たちへ香りを流す為の道を作る通気口を開ける。既に仕事と割り切った彼の、躊躇いの無い速やかな手順だった。ジュスターが香炉を床の決まった位置へと下ろしていく。

 冷えた風が音もなく滑り込み、薄く溶け出した甘い匂いが人々へと注がれる。煙もまた薄く、蝋燭だけの暗い部屋に簡単に溶けて失せる。先程列を成して通ったどの部屋とも違う、綻んだばかりの花の蕾のような静かな香りだった。

 香りは人の体や服を浸し――いつしか、思考のみならず、魂にまで踏み入る。

 それを女神が差し伸べた腕とするか、強欲な悪党の舌とするかは見る向きによる。運びからはどちらの様子もよく見えた。

「我らの魂が、女神の裾に口づけんことを……」

 そうして、ハーディ聖堂の夜の祈りは始まった。

 祭司長が教典を開き、夜の節を朗誦し始める。匂いと共に解け出た成分で信者の心は澄み渡り、神に抱きすくめられる至上の安らぎを得る。神の齎した癒しを享受し、彼らもまた神にその身の全てを捧げる。

 祭司の言葉を繰り返す者の横には、死んだように動かない者が。至福の涙を流す者の隣には、力尽きて息絶えた者が。誰もが等しく、自分の内側に神を見ている。

 彼らと同じく既に自分のことなど気にかけていない、気まぐれで悪趣味な祭司長の声から遠ざかるように、リーシルは目を閉じた。

 彼の内に女神が生まれることはなかった。運び屋は自分の持ってきた品物が神々の齎した恩恵などではなく、人を狂わせる、党の収入源だということを重々承知していた。


 小一時間もして完全に天上の香(セランブル)が頭に回った頃、祈りはまた姿を変えていた。香の小さな欠片は燃え尽き、酒と香油が振る舞われる。各々に別の麻薬を手にするのにも、そう時間はかからないだろう。

「おい、やられてないだろうな」

「風上ですから」

 ジュスターの声に、部屋の隅に座り込んでいたリーシルは目を開けた。煙の来ない位置は、立会いの心得として同僚たちからよく教えられたところだった。

「アンタ様も、これが神に近づく術だと思ってらっしゃる?」

 冷えて固まった体をゆっくり床と壁から引き剥がし、背筋を伸ばしながら運びは問うた。子供の、子供らしい疑問をそのまま発したような雰囲気だった。

 運びと同じく煙から逃れていた助祭司は、その様子に笑いながら少年を部屋の外へと促す。

「あの人はそう信じて、信徒に安らぎを与えていると思っているがね――私は兄と違ってそう楽観的ではないよ。女神の為の労働こそ、高みに至るために必要だ」

「労働」

「ああ。お前さんと同じさ。誇りあるお仕事だよ、リーシル。女神のお役に立つことこそ、信ずる者の癒しなのさ」

 イーディア党の運びの背を押し、客間として使われる方向に進んでジュスターは笑う。

 ――祭司長は冠を被るが、助祭司は杖を持つ。体を支える為の杖ではなく、敵を討ち伏せる武器としての杖だ。

「私から見たら大差ないですけど」

「お前の目など知らないね。信仰は内から生ずるものだ。……それでは良い夜を」

 運びを客室まで案内した助祭司は崩れぬ笑顔で一言残して踵を返し、静かな廊下を進んでいく。仕事場に向う禿頭を見送ってリーシルは扉を押し開けた。遠くの悲鳴を耳が拾い上げる前に眠るべきだと判断して、足はまっすぐ寝台へと向う。

 暗く冷えた部屋の中、労働、労働ねぇ、と繰り返し、彼は手を口元へとやった。指先には密やかな花のような香が染みている。

 同じようにジュスターの指先に残る移り香を、リーシルは知っていた。イーディア党が麻薬と共に仕入れる強力な毒の果実に似た匂いだ。手袋ではなく皮膚に移った、洗った程度では簡単に拭えない、常習の痕跡。

 イーディアの運びたちが「祭司長よりよほど質の悪い男」と評する助祭司の靴音は、祈りではなく、麻薬の売買が行われる区画へと向った。そこには財産を失いながらも薬を求める者や、死に喰われかけの者が何人も居る。恐らくは先程喚いていた男女もいるだろう。ジュスターは微笑んで彼らを救い、罰を与えるはずだ。他ならぬ女神の為に。

 彼は信仰に麻薬ではなく毒を用いる。毒が無ければ剣を。剣が無ければ、手でもやってのける。求めるだけの愚かな者たちを縄で繋いで売り払うのも簡単なこと。

 彼の信仰は、他者には鋭い牙でしかない。

 リーシルは応接間から移されていた荷物を確認し、首に提げていた銀の鍵をトランクに放り込む。これで彼の仕事はようやく折り返し地点に至った。先月分の売上を徴収し、ついでの品物を預かって党の本部に戻るまでが仕事だ。戻る頃には、町は祝祭の彩りと賑わいを見せているだろう。

 翌日の予定を組みながら、運びは寝台に寝そべり、目の慣れた闇に溜息を吐き出す。シプリアンによって余剰に齎された労働が、貧弱な体に重荷として括られていた。

 このような犯罪の罷り通る場所に身を置くことは、子供には沁みるような苦痛だった。自分がそれに加担することは勿論、なによりも自分の意思でこの場に身を置く選択をしたことが。

 悪事に手を添えるのは運び自身の選んだことだ。女が麻薬に手を出したのとも、シプリアンが信者に阿片を振る舞うのとも、ジュスターが制裁を信仰とするのとも、大差は無い。リーシルはリーシルで、この仕事、この立場をわざわざ選んでいる。

 明白な事実は麻薬などよりも余程強く勢いを持って少年の魂を蝕み、食い破ろうとしている。彼には信仰という名分(にげみち)も与えられはしなかった。

「……こんだけ悪いことやってりゃ、祈らんでもそのうちあちらから何か言いにいらっしゃるでしょうよ。馬っ鹿じゃないの」

 呟きを聞く者は誰もいない。

 降り始めた雨の音を聞き、彼は輝きもしない銀の杖を抱えながら枕に顔を押しつけ、目を閉じた。明朝行われる葬式の主役は一体何人になるだろうかと、そのうち誰が、真に神の指に触れられようかと考えながら。


   §


「やあ、おはよう、リーシル。どうだ、お前も朝の祈りに出るかい」

「はいはい、おはよーございます。信仰ごっこなんて真っ平ですよ。他所当たってくださいな。……ていうか、お祈りの前にこっちの準備してくださらない? これからサンデルテ経由しなきゃならないんですから」

 朝陽の差し込む回廊で眩しい白服の聖職者は、起き出してきた男を見ると相好を崩して奥を示した。男は欠伸を噛み殺し、等閑に言葉を返して癖のついた前髪を撫でる。

「私も忙しいんだけどなぁ。今日は葬祭の予定もあるんだ」

 まるで興味のなさそうな様子を気にすることなく、助祭司ジュスターは相手の主張を受け流そうと試みた。

 党から派遣される運びには速やかに売上や報告を渡して見送るのが礼儀だが、慣れた年下、子供に近い相手に媚び諂う男ではハーディ聖堂で助祭司をしていられない。

 と言うよりも、彼にしてみればリーシル・イーディアはイーディア党首の養子ではなく、党の優れた運びでもなく、単なる親戚の子のような位置付けなのだった。少なからず敬意を払ってはいるのだが、畏れるには足りないというところか。

「毎日のように死体生産しててよく言いますやね」

 窓からは会話に似合わない柔らかい風が吹き込む。秋晴れの空は透けるように青く、運びの青年の目はそれを映して平素より深く青く見える。実に長閑な日和だった。

 その麗かな天気を台無しにするように、二人が並んで歩きながら言葉を交わす手元では、教典に挟んであった小党からの手紙を受け渡したりの取引が行われている。

「いいや、今日は外部からのお願いでね」

 言葉に、リーシルは目を瞬いた。訝しげな視線を受け、ジュスターは肩を竦める。

「二年前だったかな、うちが斡旋した淑女が急死したというので街中まで出向くことになった。元から薬浸しだったからよく保ったと思うが。ああいう人の方が意外に長生きするんだよなぁ」

 感心したように言う禿げの男に、リーシルは呆れて目を細め、取り出した封書の中身を持つ手をひらと動かした。バレル党の文字を実にぞんざいに扱いながら逆の手で持った銀の棒で床を小突く。

「どの道アンタらの仕業じゃないですの。いいからほら、私は客ですよ。イーディアの運びを待たせたらどうなるか知ってるでしょ」

「元を辿ればお前たちも関係あるんだが。――イレザクならともかく、お前が言っても怖くないな。まだまだ坊主だから」

「あらぁ、よく仰いました。卸値一桁跳ね上げてさしあげましょうか。いいから早く準備なさいな。そのイレザクがキレますよ」

「お前にね」

 言葉の応酬はなかなか途切れない。何処かの部屋から怒鳴り声が聞こえても一間待っただけで、大事ではないと分かればすぐにやりとりが再開される。

 十七歳の”運び頭”は、いつかの場所を悠々と歩く。

 選択の積み重ねは彼を立派に小悪党へと成長させたのだった。

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