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アトラは魔獣を格子越しに見つめた。その視線さえ不愉快だと言わんばかりに、黄金の魔獣は全身で苛立ちを表明している。うろうろと歩き回り、格子に飛びつき、後ろ足で立ち上がって威嚇し、吠え声を上げる。
(…………。…………無理でしょう……?)
牢の戸を開けたが最後、襲い掛かられて殺される未来しか見えない。
(やっぱり無理、まだお父様たちを相手にする方がましな気がする……)
膝が震えて、腰が抜けそうだ。圧倒的な存在感を誇る有翼の獅子の魔獣に怒りをまともに向けられ、まだ失神していないのが不思議なくらいだ。
魔獣が目を見開いて大きく口を開け、吠えながら格子に勢いよく体当たりをした。アトラのいる方に向かって。
「ひっ……」
思わず悲鳴を上げるが、声さえまともに出せない。令嬢たちが甲高い悲鳴を上げるのを聞いたことはあるが、やれ花に虫がついていただの、気に入らない男に近づかれただの、笑えるほど些細な理由だった。余裕があってこそ出せる声だ。本当に命の危険に晒されたら、そんな呑気なことはできない。高い声で悲鳴など上げたら魔獣を余計に刺激してしまうだけではないか。
こういった冷静さが「可愛げがない」ということになるのだろう。可愛げなるものがあればもう少し上手く立ち回れたのかもしれなかったが、家族とも呼びたくない人たちに媚びるようなことなどできなかった。
「――――!!!!!」
牢を揺るがすような大声で、アトラの悲鳴の何十倍もの声量で、魔獣が吠える。生き物としての格の差を思い知らされるような威圧に、アトラの足からとうとう力が抜けた。すとんと尻餅をつき、へたり込んでしまう。なぜか腕にはまだ力が残っていたので後ろに手をつき、倒れることだけは避けたが、立ち上がれない。
そこへ、声がかけられた。
「……無様ね、お姉様」
魔獣の気配と声とに圧倒されていて気付かなかった。誰かが来ていたのだ。
「……ウィリ、ディス……?」
「ふふっ、声がひっくり返っているわよ。いい気味だわ」
ぎこちなく顔だけで振り返ると、暗がりの中でも輝く金髪が見えた。声で分かっていたが、やはりウィリディスだ。牢には似つかわしくないドレス姿がひどく場違いだ。
助けに来てくれたのだろうか。そうであってほしいと願ってしまうが、言い放った言葉をどのように解釈しても、そんな楽観的な見方はできない。
「……何しに来たの」
「あら、その言いぐさは何かしら。這いつくばって乞えば助けてあげないこともないのに」
「…………!」
怒りで頭がどうにかなるかと思った。やめてくれと懇願したことはあるが、聞き入れてもらえたことなどない。体ばかりでなく心まで踏みにじられて終わりだ。
代わりに、こう尋ねる。
「……どうしてそこまで、私を嫌うの」
ウィリディスはわざとらしく可愛らしく小首を傾げた。
「嫌いだっていうことに理由が必要? そんな嫌いな人が私よりも先に生まれて、伯爵令嬢の立ち位置を得ていて、王子様の婚約者になっていて。それだけでも気に入らないのに、伯爵令嬢の立場も王子様の婚約者の立場も、まるでお下がりを貰い受けたみたいじゃない。気に入らないったらないわ」
「な……」
つらつらと並べ立てられたのは、理由なくただ嫌いだというそれだけの言葉だった。
(……聞き方を間違えたわ。いえ、聞いたのが間違いだった……)
どうして自分を嫌うのかではなく、どうして自分にこんなことをするのかを聞けばよかったのかもしれないと少し思ったが、たとえそう聞いていてもまともな答えは返ってこなかっただろう。身勝手に嫌われて、それだけならまだしも、実害が伴っていて。天災のような理不尽さだ。
「その目つきも嫌い。可愛げがないところも嫌い。王子様もそう仰っていたわ。暗いのは髪色ばかりではないのだって」
(……こちらだって嫌いよ)
ウィリディスも、エゼル王子も、父も継母も。アトラは憎しみを込めて睨み返した。
「やだ、こわーい。怖くて手が震えちゃうわ」
わざとらしく言い、ウィリディスは白い手を牢の戸に伸ばした。止める間もなく、鍵を外す。父に可愛がられているウィリディスは当然のように牢の鍵を持っていた。
「……!? 何して……!」
ろくに声を上げる間もなかった。牢の格子の一部が開き、魔獣が踊り出てくる。前足を強く地面に叩きつけ、大きく吠えた。
「ぐおおおおお!」
恐怖と驚愕に顔を引きつらせるアトラとは対照的に、ウィリディスは澄まし顔だ。可愛らしい声で楽しそうに言う。
「私を髪の毛一筋でも傷つけたら、あなたの大事な大事な魔珠はお父様が粉々にしちゃうわよ。だからそんなことはできないわよね?」
「ぐるるるる……」
不満を隠さずに唸る魔獣の様子を見るに、言葉が分かっているとしか思えない。それに、
(やっぱりウィリディス、魔珠のことを知ってたわね……!)
何のことか分からないなどと言っていたが、やはり知っていたようだ。魔獣の行動を強く牽制するものだということも。
「でも、そこに転がっている遊び道具なら話は別よ。好きなように傷つけていいからね。『運動』になるでしょう?」
「な…………!」
あまりの悪意に、寒気がした。魔獣に運動をさせろというのは……こういう意味だったのか。寒気はもしかしなくても、命の危機を感じているせいもあるだろう。
「……っ、この魔獣は王家からの贈り物なのでしょう!? 人を傷つけたら責任が及ぶわ!」
しかもアトラは伯爵令嬢だ。問題はさらに拗れるはずだ。
ウィリディスは微笑みながら否定した。
「王子様の手配で買えたものだけど、いちおう贈り物ではないわ。まあそれはどうでもいいのだけど。これも教えておいてあげるわね」
アトラの嫌な予感を裏付けるようにウィリディスは続けた。
「不注意でとか、家人が止めるのを聞かずにとか、魔獣にのこのこと近づいての事故って結構あるのよね。一般の家畜と違って魔獣が責めを負わされることはないの。むしろ魔獣の持ち主と被害者との間だけの問題なの。まあそれは表向きの話」
「……裏だとどうなの」
「魔獣って餌を綺麗に食べ尽くすわよね。鶏が羽だけになるくらいに。……その黒髪だけ残るなんて、面白いと思わない?」
「………………!」
事故として片づけるのでも、話自体を揉み消すのでも、どちらでもいい。ウィリディスはそう言っているのだ。