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「はいこれ、今回の分。檻はいつものところに置いておいておくれね」
「……ええ、ありがとう……」
アトラは渡されたものを台車に固定しながらひきつった笑みを浮かべた。
これ、とは鶏だ。数羽の鶏が檻の中でばさばさと羽音を立てながら忙しなく歩き回っている。
新鮮な……というか、生きている鶏だ。――魔獣の餌だ。
(どうして、こんなことに……)
アトラは溜息を呑み込み、台車を押してとぼとぼと歩き出した。向かう先はもちろん、魔獣がいる地下牢だ。
元気よく羽ばたく鶏を眺めるのは複雑な気分だ。これが魔獣の糧になり血肉になる、そのことは理解しているがまだ慣れない。目の前で魔獣が鶏を生きたまま貪り食うのを初めて見たときは気が遠くなりかけた。下働きのようなことをさせられているアトラだからこそまだ耐性があるが、普通の貴族令嬢がそんなところを見たら一生もののトラウマになること請け合いだ。
(……たしかに、美味しそうではあるけれど……)
そんな風に考えてしまう自分はだいぶ毒されてきているのかもしれない。心なしか、檻の中の鶏がぎょっとしたような顔でこちらを見た気がした。
魔獣は基本的に生餌しか食べないらしい。そういったことを調べ、人間用の食料と一緒に搬入してもらう手筈を整え、魔獣のところまで毎日朝晩運ぶ。そうした雑事をアトラは一手に引き受けて――というか、押し付けられて――いる。
(魔獣の命はお前のよりずっと重いのだとか、魔獣の美しさを損なったら分かっているだろうなとか、言いたい放題言ってくれちゃって……)
地下牢への陰鬱な道を辿りながら思い出してしまい、またむかっ腹が立ってくる。魔獣の健康のことを考えず「美しさ」と表現したあたりに父の価値観が出ていると思う。本当に、相容れない。
生餌の鶏を運び、魔獣の檻の前まで辿り着く。逃げ出されることを警戒してだろう、牢には明かり取りや換気のための開口部というものが一切なく、光源を持ち込まなければ人の目には何も見えず、空気は湿っぽく黴臭く澱んでいる。
(こんなところに入れられたら、病気になるのが先か気が狂うのが先か……魔獣にとっても良いことなんて何もないのに……)
その場しのぎで押し込められている魔獣が哀れだ。
だが、そんな余裕のあることを考えている場合ではない。今日はいつもと状況が違う。
「はい、餌を持ってきたわ」
黙ったままなのもどうかと思い、魔獣には声をかけるようにしている。どこまで理解されているのかは分からないが、声をかけて悪いことはないだろう。……それが阿りであることは自覚しているが、藁にでも縋りたい気持ちだ。特に今日は。
牢の格子に小さく設けられている開口部、人に対しては食事のやり取りに使うであろうそこに、鶏の檻の口を接続させる。魔獣がのっそりと近付いてきた。鶏は怯えて甲高い鳴き声を上げて羽ばたき、檻の中に留まろうとするが、魔獣の前足が容赦なく檻の中をかき回して鶏を引き寄せた。あとはもういつもの通りだ。首がねじ切られる音も、噴き上がる血飛沫も、肉が骨ごと噛み砕かれる音も、匂いも、もう何度となく経験してきている。
しかし今日のアトラは、それを青い顔で見ていた。
いまさら鶏に同情したわけではない。もちろんかわいそうだとは思うが、生きていくために命を頂くのは必要なことだ。アトラ自身も肉にありつける時は――薄いスープに申し訳程度に浮いた脂身とか、干し肉の切れ端とか、そういったものばかりだが――今まで以上に意識するようになった。罪悪感を持つのは違うと思うのだが、かといって罪悪感を持たないのも違う。そうした矛盾を、せめて抱えていようと思うようになった。
顔色が悪いのは、鶏に同情しているからではない。鶏に投影してしまっているからだ。――自分も、ああなるのではないかと。
(せめて……苦しまずに死ねるといいのだけど……)
願いながら、魔獣が食べ終わるのを待つ。あまり時間はかからない。いつも暴れてばかりの魔獣が食事の時ばかりは大人しくなり、食べるのに集中する。食べ終わるまでの時間も早く、血に濡れた口元を舐めながら顔を上げた魔獣とさっそく目が合った。羽は辺りに散らばっているが、肉はもちろん骨さえ残っていない。
「っ……!」
ひきつった悲鳴が漏れそうになる。それをなんとか堪えて、アトラは深呼吸を繰り返した。魔獣の圧倒的な存在感、威圧感、そうしたものの前で声を出そうとするのは一苦労だ。
「……魔獣さん。あなたを、外に連れ出して運動させろと言われているの」
「ぐるるるるる……」
アトラの言葉が牢に空虚に響き、魔獣の唸り声が声を掻き消す。いっそなかったことになればいいのにと思いつつ、アトラは自分に言い聞かせるように言葉にしていく。
「あなたがここに入ってから、もう五日が経つわ。本来なら、入った次の日からでも運動させないといけないのに……」
「ぐあああああ!」
魔獣は不機嫌に唸る。アトラの言葉を解して不機嫌になっているのではなく、一昨日あたりからずっとこんな調子だ。狭く暗い牢屋に閉じ込められて、鬱屈が溜まっているのだ。牢の中を無意味に行ったり来たりし、格子を齧り、轟くような唸り声や吠え声を上げる。
それを、折悪しくデルウェンとウィリディスが聞いてしまった。
魔獣が届いた日こそ喜んでいたものの、次の日にはもう魔獣のことを忘れたかのようにアトラに世話を丸投げした妹が、気まぐれを起こして父とともに魔獣を見に来ようとしたのだ。
(絶対に世話をするから飼って……というのは犬や猫を親にねだるときの常套句だけど。あの子はそんなことすら言わなかったし、世話をするなんてこれっぽっちも頭になかったのに……)
おまけに、調教師を雇う費用さえけちって出さず、アトラに押し付ける。それなのに、いいとこ取りはしたいらしい。美しい魔獣を侍らせて自慢したいと堂々と言い放ったのだ。
『そのためには運動が必要なのでしょう? お姉様、適当に運動させておいて。え、魔珠? 何のことか分からないわ。必要なものがあるならそれも適当に用意しておいて』
ウィリディスの勝手な言い草を思い出してしまい、一瞬だけ怒りが恐れを塗り替える。しかし恐怖はまたすぐにやって来た。
苛立って暴れる魔獣を、これからアトラは外へ連れ出さなければならないのだ。身を守るものも、魔珠も、何も無しで。