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「ラクス家は伯爵の位を頂いており、家格としては王子妃を輩出するに足る家柄です。ですが、領地の運営や資金の使い方……いわば家単位での素行のようなものが不適格です。元々は私が婚約のお話を頂いていたので、これでも改善を試みようとはしたのですが……」
エゼルとの婚約には全く乗り気ではなかったとはいえ、お世話になった王妃殿下と母の意向なら守ろうとは思っていた。母も父との結婚生活はおそらく幸福なものでなかったのではと思うのだが、それでも貴族の常として半ば義務として嫁いだ。アトラもそれに倣うくらいの心構えはあった。
実家では肉体労働だけでなく頭脳労働もさせられていたので――母が生きていた頃に受けさせてもらえた教育のおかげで、それなりの知識はあったし計算もできたので――、伯爵家の財政状況が芳しくないことは分かっていた。不正をはたらいていたというのではないが、領地から上がる不満に充分な対処をしなかったし、より良くしていこうという姿勢もなかった。
モーリスが助け舟を出す。
「だからだろうな。ラクス伯爵家の財政状況が傾いてきたということは私の耳にまで噂として届いてきた。べつに公爵家として情報収集をしたわけではなく、そこらで普通に噂として聞いた。王子妃を輩出せんとする家としてはあまりにもお粗末だが……それもこのアトラを手放したせいが大きいだろうな。それまでかろうじて保っていた状態が崩れたのだ」
「え……と、それは、買い被りでは……」
瞬くアトラにモーリスは首を振った。
「あなたのそうしたことに対する知識や姿勢は私が見てきた通りだ。王国中央部とはまるで様子が違うテネブレ領に来て間もない状態であっても、あなたはテネブレに親身になってくれた。自身のできることを惜しみなくしてくれた。テネブレでさえこうだったのだから、馴染んだラクスでどれだけあなたが支えになっていたか、私でも想像がつく」
「…………。ありがとう、ございます……」
モーリスの言葉が、思いがけないくらい心に染みる。褒められたとか認められたとかそういうのもあるが、それ以上に、報われたと感じた。
(……どうしよう、すごく嬉しい……)
実家での労働がつらかったのは、それが肉体的に負担が大きかったというだけでなく、精神的に消耗するものだったからなのだと、離れて客観的に考えてようやく分かった。ありがとうと言ってもらえれば、労ってもらえれば、きっとそれだけでよかったのに。頼るべき母を失い、新しい妻と娘を引き入れた父からは邪険にされ、ぼろぼろになっていた心がテネブレで息を吹き返してきた。干からびそうになっていた種がようやく水をもらえた、そんな感覚だ。
渇いて死にそうになっていた頃のアトラだったら、たとえ泥水でも天の恵みだと思って押し頂いただろう。自分を嫌う家族から、お情けではなく嘲笑とともに下されるようなわずかな肯定であっても、それが欲しいのだと自覚しないままに求めていた。
だが、もうそんな望みは持たない。それが歪んだものなのだと、きちんと気づける。泥水ではなく清水を求めていいのだと思える。
アトラはラクス伯爵家の面々を見回した。敵意、不快さ、焦燥、そして……恐れ。アトラに何を言われるのか、何をされるのか、三者三様に怯えているのが確かに見て取れた。
(…………こんな、小さい人たちだったっけ……?)
そう思ってしまうのは何も、アトラがテネブレ公爵家に保護されたからではない。きちんと心身の健康を取り戻せば自ずと分かってくる。それまでの自分がどれだけ縮こまっていたか。環境は自由にならなくても、心くらいは自由でいられたはずなのに。
その自由を与えてくれた――取り戻す助けをしてくれた――モーリスに感謝の視線を送り、アトラは向き直って決別を告げた。
「あなた方が私にしてきたことも、イーラにしてきたことも、すべて知る限りのことを陛下にお伝えします。ラクス伯爵家は王子妃を輩出するどころか、魔獣を飼うことすら満足にできない、上位貴族の仲間入りをするなんておこがましい家なのだと」
「――なんだと!?」
アトラの言葉に、デルウェンが血相を変えた。無理もないかもしれない。大人しいからと苛めていた動物に手を噛まれたように感じたのだろう。アトラは今までこんな反抗的な物言いをしたことはないし、一応は親に対する敬意を最低限とはいえ保ってきていた。だが、ここにいるのは尊敬して大切にすべき家族ではなく、罪人として押さえられたみじめな他人だった。助けたいと思うような絆も感情もない。たとえ自分もラクス伯爵家の一員として連座して罪を問われようとも構わない。個人として誠実に対応するまでだ。あくまでも個人として、他人として。
アトラの覚悟を感じたのか、デルウェンが唇を噛み締めた。




