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『疾く逃げよ、主。こやつは許さぬが、主を巻き込みとうはない。我が狂う前に、この爪と牙の届かない処へ、疾く』
イーラはまだ冷静だ。冷静に、アトラだけは逃げろと伝えてくる。……自分は、アトラのために自分も魔珠をも犠牲にしたのに。
「……できるわけないじゃない! 逃げるなんてこと!」
『疾く! 我が何のためにこうしたと思うておるのだ! すべてを無駄にする気か!』
イーラが焦りながら叱責する。確かに、このままでは全滅だ。イーラの献身が無駄になってしまう。……でも、献身をありがたく思うからこそ……逃げ出せない。
アトラではなく男性が逃げ出そうともがくが、イーラは腕に噛みついたまま離さない。牙を立てるというよりも口で押さえ付けるような感じの噛み方ではあるが、かといって傷つけないように配慮している様子もなく、袖の血の染みが広がっていっている。
その血の匂いにイーラが顔をしかめた。刺激されてしまうことを恐れたのかもしれない。
「ぐ、ぐるるうう……」
イーラが抑えきれない唸り声を漏らした。毛が逆立ち、いよいよ自我を手放そうとしている。それに意識が必死に抗っている。
(何か……何か、出来ることはないの……!?)
イーラの背に手を回して、アトラは必死に考えた。手詰まりの状況のなか、何か、何か出来ることがないか。
『――――!』
必死に思考したせいか、頭が白熱する感覚があった。何かが弾け飛び、鎖を何重にも巻かれて厳重に閉ざされた箱の口が内側から破裂したような錯覚に襲われる。
くらりと視界が暗くなり、足から力が抜ける。最初から膝立ちの状態だったために転んだりはしなかったが、そのまま床に頭から突っ込みそうになった。
薄れかけた意識の片隅でそれを意識するが、体が自由にならない。だが、痛みはいつまで経ってもやって来ず、次第に頭と体に力が戻ってきた。
「…………?」
何が起きて、今どうなっているのだろう。まだアトラは死んでいないらしく、それならイーラはまだ暴走していないのか……
「……アトラ!」
……どうしてだろう、モーリスの声が聞こえる。泣きそうになるくらい安心できる声だ。だが、聖堂にいる彼の声がここに届くわけがないのだから……もしかすると、ここはもう天国なのだろうか。
「……しっかりしろ、アトラ!」
だとしたら、こんな切羽詰まった声ではなく、もっと穏やかな声を聞きたい。もう何もかもが終わってしまったのだから……。
「……駄目だ、意識が混濁している!? 横にならせた方がいいか!? それとも動かさない方がいいのか……!?」
そんなことをする必要はないのに。もう死んだあとなのだから……
(…………? ちょっと待って、頭が痛い……!)
割れるように頭が痛い。頭の痛みから気を逸らそうとしてみると、体の節々も痛む。天国にいるのにこんなのはあんまりではないだろうか。それか、もしかして……
「きゅー?」
(…………?)
なんだか温かく湿ったものが顔に触れた気がする。不快な感覚ではなくて、なにか覚えのあるもののような気がする。その感覚を辿るようにして、痛み以外の感覚も戻ってくる。どうやらアトラは今、イーラの体にもたれかかって座っているらしいのだ。そして、顔に触れた感覚の正体は……
「……舌? え、!?」
ざらっと温かく湿った感覚、それはたぶん、動物の舌だ。おまけに、なにかもふっとした口元が目の前にある。目を開けたとたんに訳の分からない光景が飛び込んできて、アトラの理解が追いつかない。
「ああ、よかった! 気が付いたか!」
その何かを押しのけるようにしてモーリスが視界に映った。それは嬉しいのだが、状況がさっぱり分からない。
「モーリス様……? イーラは……? 今のは……?」
アトラが混乱しているのを見て取ったモーリスは頷き、手短に説明した。
「まず、イーラは無事だ。魔珠も無事……と言うと何だか違うが、大丈夫だ。犯人は王獣殿と私が拘束したから心配ない。そう長くはないが、あなたが気を失っていた間のことだ」
アトラは瞬いた。それが本当なら、心配事があらかた片付いたことになる。ちらりと周りに目を向けるが、ここは尖塔の上部、移動させられたりはしていない。そうなるとモーリスたちが移動してきたことになるが、聖堂の方から破壊音が聞こえてきたりもしていない。脆くなっている場所が崩れるなどはしているようだが、新たな混乱は起こっていない様子だ。
喜ぶべきことのはずだが、まだ理解が追い付かない。イーラは狂いかけて、しかもそれは元通りにならないはずだった。
「魔珠は割れたのでは……? イーラはどうして狂っていないの……?」
『ご挨拶だな、主よ』
「いえ、嬉しいのよ!? 本当に、すごく! でも、訳が分からなくて……」
確かに、イーラの無事な声が聞こえる。そちらに顔を向けなくても分かる、もたれかかっている背中が温かい。イーラの毛並みだ。
混乱するアトラの視界に、影がさした。




