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「……っ!」
躊躇ったのは一瞬だった。アトラは叫んだ。
「私はいいから! 魔珠を追って!」
「!?」
男性とイーラの驚愕する雰囲気を感じつつ、アトラは覚悟を決めた。……拘束された時から、首筋に冷たいものが当てられている。妙なことをしでかせば首を刃物で掻き切るという脅しであることは明白だし、するとなったら脅しだけでは済まないのも確かだろう。なにせ死傷者が出るような大騒動を引き起こした人なのだ。
(やせ我慢だけど……そう言えてよかった……)
放り出された魔珠は諦めて自分を助けろと、言わなかった自分を誇りたい。ここは自分を褒めていいところだろう。……引き換えに、この命がなくなるとしても。
そうした一連の思考がよぎったのはほんの一瞬の間のことだろう。死ぬ前には時間の流れがゆっくりに感じられるというが、それをまさに体感している。
イーラはアトラよりも自分の魔珠を選ぶだろう。優先するだろう。魔珠が魔獣にとってどんなに大切なものであるかは分かっているし、そもそもイーラは初めのころ、アトラを殺しかけたことがある。魔獣の価値観ではアトラの命など軽いだろう。
――そう、思っていたのだが。
『…………っ!!! できるわけがなかろうが!!!』
吠え声とともに心の声がぶつかるように伝わってきた。同時に体に衝撃が走る。イーラが体当たりをするようにして無理やり体を割り込ませ、アトラを男性から引き離しつつ刃物を遠ざけたのだ。
「っ、馬鹿な!? そんなこと出来るわけがない! そんな行動をとれるわけがない!」
男性は尻もちをつきつつ、驚愕を隠せずにいる。アトラを拘束し、イーラを脅し、優位に立っていたはずの男性ではあるが、武器を持たない人間であることには変わりない。魔珠で以て魔獣の行動を縛れないとなると、こうやって追いつめられることになる。
だが、男性以上にアトラの方が慌てていた。
「イーラ! 早く、魔珠を! もう……」
……遅いかもしれないけれど、という言葉を呑み込む。ここが城の中でも高い位置にあり、下はもしかしたら掘り下げられるなどしているかもしれないが、それでも魔珠の落下速度は自然物のそれだ。重力に逆らうことはできない。こうやってアトラが手をこまねいているうちに、すでに地面に叩きつけられて……割れてしまっているかもしれない。魔獣の飛翔速度を以てすれば、投げ出された時にすぐ追えば空中で魔珠を拾えたはずだ。イーラがそれをしなかったのは……ひとえにアトラのためだ。
「イーラ……」
『……出来ぬ』
イーラは苦痛の滲む声で、しかし吹っ切れたように言った。
『我は一度、お主を殺そうとした。二度目はないと決めていた。……たとえ、この身や心が壊れようとも』
「魔獣が、自身の魔珠を優先しないだと!? 命にも等しいものを顧みないだと!?」
男性が驚愕にひきつった声で叫ぶ。イーラの心の声は彼にも聞こえているから、イーラの内心はすべて分かるだろう。声音の抑えきれない焦燥も、苦痛も。……それが本心からの言葉であることも。
男性の描いていた筋書きは、イーラに魔珠を追わせ、その間にアトラを厳重に拘束してしまおうというものだっただろう。魔獣が魔珠を追わないわけがないし――少なくとも男性はそのように考えていたし――、追おうとするなと言ったのはイーラを煽るためだけだっただろう。
それが、本当になった。イーラはアトラを優先し、魔珠は外へ放り投げられ……
「……っ!」
逃げ出そうとした男性を、イーラが難なく止めた。服のついでとばかり肉にまで噛みついたらしく、袖に血が滲んでいる。
『逃がすと思うか? 魔珠を失った魔獣がどうなるか……分かっておるだろうしな?』
「どういうこと……?」
アトラの疑問に答えたのはイーラではなかった。男性が虚脱したように座り込みつつ言う。
「魔獣にとっての魔珠は宝物だ。それを押さえられたら絶対に逆らえないものだ。心情的に従いたくないのではなく、体が従わざるを得ない。なぜならそうしないと……狂うからだ。先ほどの王獣の比ではなく……それも、この先ずっと……」
「そんな……!?」
確かに、そういうものではありそうだった。狂いかけた魔獣でさえ、魔珠を安全なところに確保すれば大人しくなって鎮まった。だが、その魔珠がなければ……答えは自ずと明らかだ。
アトラは尖塔の最上部の縁に駆け寄った。目を凝らして見てみても、もちろん魔珠が見えるわけではないが……そうせずにはいられなかったのだ。もしかしてどこか鳥の巣などに引っかかっているかもしれない。下が柔らかい腐葉土か何かで奇跡的に割れずに無事かもしれない。そんなふうに薄い期待をせずにはいられない。
(そうでなければ……イーラは……)
体も心もめちゃくちゃになってしまう。……死刑宣告をされたに等しい。




